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真実のチベット近代史

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 まず初めに地図をご覧ください。チベット自治区青海省四川省の一部が赤い枠で囲まれていますね。それが本来のチベットです。現在、チベットの暴動問題がマスコミで(やっと)取り上げられていますが、一般の人はなぜチベットの人たちがここまで怒っているのか分からないと思います。それは彼らマスコミが媚中派のためまともな歴史を紹介しないからです。

 特にNHKやTBSの報道姿勢には特に顕著で、私は彼らに対して怒りを禁じえません。真実のチベットの歴史を皆さんに知って欲しくて、ここに拙い文章ではありますがご紹介させていただきます。


 そもそもチベットは中国とは別の国でした。民族も違いますし(チベット族と漢族)、清王朝の時代までは独自の国でした。満州族の建てた清でも、間接支配しただけで今のように軍隊をもって弾圧した例は少なかったのです。

 しかし、人民中国は旧清時代の版図は自分達が支配する権利があるとばかりにあからさまな侵略行為を行います。1950年10月7日、人民解放軍は2万の兵力をもってチベットに侵攻します。人民を解放するためとか何とか、侵略の口実はいくらでもありました。

 これにはライフルさえろくにもたないチベットの人たちも果敢に抵抗します。チャムド地区では義勇兵を含め8千のチべット軍が迎え撃ちますが、国共内戦や日本軍との戦争で鍛えられた人民解放軍の敵ではなく、2日間の戦闘で完全に粉砕されました。ダライ・ラマ14世の発表によれば、このときのチベット側の戦死者だけでも4千名以上、ほとんど全滅といってよいくらいの損害です。


 事実上、チベットの抵抗はここまででした。ラサ東方100キロまで侵攻した人民解放軍でしたが、一旦ここで進軍をストップします。それは急峻な山岳地帯と高原が連なるチベットを完全支配するには、準備不足だということを痛感したためです。


 中国は当時まだ十代だったダライ・ラマ14世に「自分達は平和的に侵攻した」「実質的な自治を与える」などと甘言を弄し時間を稼ぎます。1951年、中国の主権を認める十七か条協定に調印させ着々と準備を進めました。1956年、チベットに繋がる幹線道路が完成します。


 補給路が完成し、大軍が送り込めるようになった中国は侵略を再開します。あまりにも卑劣な中国の態度に、おとなしいチベットの人たちは激しく反発しました。各地で人々は蜂起し、首都ラサでも実質的支配者の中国にたいして、ダライ・ラマの護衛部隊を中心にして大規模な反乱が計画されました。

 1959年のことです。しかし、ある意味これは中国が待ち構えていた事態でした。これで合法的にチベットを完全占領できるからです。中国は西蔵鎮圧軍を組織して6万5千もの大軍をチベットに送り込みます。首都ラサを奪回した反乱軍に対し、3月20日侵攻してきた中国軍は総攻撃を開始します。

 兵力・兵器の質・量とも圧倒していた中国軍は、圧倒的優勢の中ラサのポタラ宮殿にチベット反乱軍を包囲します。2日間の攻防戦で宮殿は陥落、ダライ・ラマは徒歩でヒマラヤを越えインドに亡命しました。

 事実上チベットの抵抗はこれで終焉します。3月末までにはラサ一帯を制圧、辺境ではまだチベット人の抵抗は続きましたが、4ヶ月後中国軍は完全にチベット制圧に成功しました。チベットは分割され東北部は青海省に、東部は四川省編入され、残されたわずかな部分が自治区として残されます。

 自治区より周辺の省にチベット人が多いのはそのためです。これが俗にチベットの反乱あるいは暴動と言われるものの真相です。この戦いによるチベット側の死傷者は1万1千人と言われますが、実際はそれ以上でしょう。


 これ以後、中国は圧政をもってチベットを支配し続けます。チベットには大量の漢族が流入し、チベット人の土地を奪い支配します。反抗するチベット人は容赦なく弾圧され投獄、処刑されました。現在までに数十万ともいわれるチベットの人々が虐殺されたそうです。今では漢族とチベット人の数が逆転しているとも言われています。これは現在260万くらい(周辺地域をあわせると600万余、侵攻当時は120万ほどしかいなかったといわれています)しかいないチベットでは驚くべき数字です。


 このような悲惨な歴史があるので、人権を重視する欧米の人たちの、今回のチベット弾圧に対する非難は理解できるでしょう。日本政府やマスコミが、チベット弾圧に対し中国政府に何も言わないのがいかに異常なことか分かるのではありませんか?


 チベットの歴史を一人でも多くの方に知っていただきたいと思い、ここに書かせていただいた次第です。