鳳山雑記帳はてなブログ

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北方アジア、遊牧民の興亡

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 最近私が中世から近世にかけての遊牧国家の歴史にはまっているのはなんとなく想像できるでしょう。一般受けは全くしないと思いますが(汗)、熱意が冷めないうちにモンゴル高原を中心とした北方アジアの遊牧国家の歴史を纏めておこうと思った次第です。読者の皆様は、あまり興味を覚えられないと思いますのでスルーしてくださいな(笑)。
 
 
 高校世界史などを学んでいると、明朝が成立した時元朝の勢力がモンゴル高原に逃げて何となく滅んだような印象を持たれた方が多いと思います。
 
 これは中国中心の歴史観の弊害で、モンゴル人にとっては割の良い植民地(中国本土のこと)を奪われてもとの本拠地に帰っただけにすぎませんでした。
 
 ただ、明朝側は再びモンゴル勢力が力を盛り返し南下するのを恐れるあまり何度となく討伐軍をモンゴル高原に差し向けました。永楽帝のモンゴル遠征は5次に渡って繰り広げられましたが結局モンゴル側に決定的な打撃を与えることなく失敗に終わりました。
 
 ただ1388年、明将藍玉に破れた北元の皇帝トクズ・ティムール・ハーンを、かつてフビライと大汗位を争って敗れた弟アリクブカの子孫であるイェスデルが暗殺し、大汗位を簒奪したためモンゴル勢力の復活は一時頓挫しました。
 
 イェスデルは、昔チンギス汗に敗れ服従しつつも潜在的には敵国であった外様のオイラート部、ケレイト部、ナイマン部、バルグド部の支持を集めます。これをオイラート部族連合と呼びます。一方チンギス汗→フビライ汗の血筋をひくフビライ家の子孫(大元皇帝の子孫)を正統とする部族は、モンゴル人と呼ばれました。
 
 明代の資料では、モンゴルの事を韃靼(タタール)と蔑称で呼んだため混乱しますが、要するに今のモンゴル人の先祖たちです。
 
 
 明代初期には、モンゴルとオイラートの抗争でとても南下どころではなかったので歴代明朝皇帝は安泰でした。しかし、オイラート部族にエセン・ハーン(?~1454年)という英傑が登場します。
 
 
 エセンは、モンゴル部族との抗争に勝ち久しぶりにモンゴル高原を統一しました。さらに東トルキスタン西トルキスタンにも進出し元朝以後では最大の勢力圏を築きました。
 
 最初エセンは、大国明とは事を構えない方針でした。しかし朝貢貿易で3千人もの大使節団を送り込んだため明側は困惑します。というのも朝貢貿易は相手側より多くの贈り物をしないといけないため明側の大赤字になるからです。たまりかねた明は、オイラートとの貿易を制限します。
 
 怒ったエセン・ハーンは、ついに挙兵し1449年7月明の長城を越え山西省大同に侵入しました。慌てた明側は、数十万の軍勢を集めこれを防ぎますが各地で敗退を重ねます。そればかりかオイラートを侮り親征してきた時の皇帝英宗正統帝が近衛軍と共に土木堡というところでオイラート軍の捕虜になるという大失態まで演じました(土木の変)。
 
 
 パニックに陥った明朝政府ですが、この時は兵部侍郎于謙という者が北京死守を強硬に主張し英宗の弟を急きょ皇帝に立て(景宗)、必死の防戦でオイラート軍の攻撃を防ぎ切りました。
 
 エセン・ハーンは困り果て、和議に応じ英宗を明側に送り返します。ひとまず事なきを得た明側ですが、前皇帝英宗と現皇帝景宗との関係はぎくしゃくしていました。英宗は、皇帝位を弟に奪われたのが不満で(自業自得ではありますがDQNは自己反省はしないので…)、クーデターを起こし病床についていた弟から皇位を奪還し再び皇帝に返り咲きました。
 
 英宗は皇帝になると、明の救世主于謙などの功臣を粛清するなどその統治は乱脈を極めました。明朝は以後衰退の道を歩み始めます。
 
 一方、オイラートですがエセン・ハーンの死後勢力を盛り返したモンゴル部との抗争が再燃したため南下どころではなくなりました。それが結果的に明朝を生き長らせる事になりました。
 
 
 モンゴル高原の主導権争いは、モンゴル部にダヤン・ハーンが登場するとモンゴル側優位に傾き始めます。ダヤンは自分の11人の息子たちを支配下の各部族に入り婿として送り込みました。各部族を左翼と右翼に分け、左翼をチャハル部、右翼をオルドス部に支配させました。
 
 1524年、ダヤン・ハーンが死去するとモンゴルは一時混乱しますがダヤンの孫アルタン・ハーンが即位すると再び強勢となります。連年のように明に侵入し、一時は北京を包囲するほどでした。
 
 明の隆慶帝はアルタンとの和平に応じ、1571年講和が成立します。莫大な朝貢貿易の利益をモンゴル部に与える事にはなりましたが、明は軍事負担が減ったためトータルでは楽になりました。
 
 
 一方、モンゴルではアルタンの死後再び分裂し各部族が互いに抗争するようになります。明の脅威はひとまず去りました。しかし満洲の地には女直族のヌルハチが興ろうとしていました。明にとって北慮はモンゴルから、ヌルハチの興した後金に移っただけでした。
 
 モンゴル部族でアルタン・ハーン以後チャハル部のリンダン・ハーンが一時強大化した事は前記事で書きました。
 
 しかし結局、後金の後身である清朝に敗れモンゴル高原は女直(=満洲)族の支配下に置かれます。ところでモンゴル族との抗争に敗れ一時逼塞していたオイラート部族はどうなっていたでしょうか?
 
 実は彼らは、モンゴル高原に次ぐ遊牧の適地であるジュンガル盆地に拠点を移しジュンガル部を名乗っていました。ジュンガル部は、1623年モンゴルの支配を覆しその宗主権から脱します。
 
 1671年、ジュンガル部にガルダン・ハーン(在位1671年~1697年)という英主が登場しました。チベットダライ・ラマの宗教勢力と結びついたガルダンは各地に攻伐を繰り返しモンゴル高原から東西トルキスタンにまたがる大帝国を築き上げました。歴史上これが最後の遊牧帝国といわれます。
 
 
 しかし隣国清には、康熙帝が即位していました。両雄並び立たず、ガルダンと康熙帝支配下部族の帰属をめぐって次第に対立を深めます。
 
 そんな中、ガルダンの甥ツェワンラブタンが反乱をおこします。その鎮圧に手間取っているのを見た康熙帝は、1696年自ら大軍を率い全軍を東路、西路、中路の三軍にわけジュンガル領に侵入しました。
 
 皇帝直率の中路軍はガルダンの主力軍捕捉に失敗しますが、西路軍が退却するガルダンの主力軍をテレルジで捕捉して大勝利を上げたという報告を受けました。これをジョーン・モドの戦いと呼びます。狂喜した康熙帝は天に向かって感謝をささげたと伝えられます。
 
 一方敗れたガルダンですが、夜の闇にまぎれてアルタイ山脈方面に逃亡、翌1697年病死したと伝えられます。
 
 
 ジュンガル部は英主の死去で衰退し、康熙帝孫乾隆帝時代の1755年再び皇帝の親征を受け滅ぼされました。
 
 
 こうして最後の遊牧帝国といわれるジュンガル部は滅亡します。以後このような広域を支配する遊牧国家は登場しませんでした。