鳳山雑記帳はてなブログ

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磐井(いわい)の乱と朝鮮半島情勢

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 福岡県南部、八女茶で有名な八女市の北のはずれ、国道3号線沿いにひろがる丘陵地帯。茶畑が広がる中に一際目立つ古墳があります。527年、大和朝廷に反乱を起こした筑紫の君磐井の墓と推定される岩戸山古墳です。

 527年、新羅の侵略を受けた任那日本府を救うべく近江毛野(おうみのけなorけぬ)率いる6万の遠征軍が朝鮮半島に派遣されました。筑紫の君磐井は、これに反対して九州において反乱をおこします。一説では新羅がひそかに贈賄し磐井を影から援助していたとか。
 物部麁鹿火(もののべのあらかい)を将とする朝廷軍が派遣され、1年の抵抗の末、筑紫国三井郡で最終決戦が行われ、敗北。磐井はそこで斬られたとも、豊前の山中に逃亡して死んだとも伝えられています。息子の筑紫君葛子(くずこ)は、連座を恐れ糟屋の屯倉(みやけ)を献上して死罪を逃れたそうです。 
 反乱を起こして殺された磐井が、巨大な古墳をのこしたか疑問なんですが、生前から造営しこの中には磐井の遺体はないそうです。

 ところで、なぜ磐井が反乱を起こしたかですが、度重なる半島への出兵で北九州が疲弊し、これ以上耐えられなくなったことがあげられます。兵站部門の負担は現地負担ですから、それも頷けます。
 無理な外征に対する現地の反乱、と一般的には捉えられているのですが、面白い説があるので紹介します。「もともと大和朝廷とは別に九州王朝ともいうべき勢力があった。その支配者が筑紫君磐井であった。当時の日本は大和朝廷の一元支配ではなく、これら地方王国とのゆるやかな連合であり、反乱は大和朝廷の日本統一戦争の最期の仕上げだった。」というものです。
 
 私鳳山は、任那日本府大和朝廷発祥の地と考えていますから(「私見 任那日本府考」参照)、この説はうなずけます。大和朝廷が、任那にあれだけこだわった理由も、もともと自分たちの故郷であり、本家であったとすると合理的に説明できます。
 磐井にとっては、「なんで他人の戦争で、自分たちが兵站を負担して苦しまないといけないのか」という思いが強かったのではないでしょうか。
 かって、半島から渡ってきた騎馬民族に屈服して以来、属国として苦しめられ、我慢の限界に達したというところでしょう。

 それに、当時の朝廷は継体天皇の時代でした。ある史家は皇統の断絶が起こり、簒奪されたのでは?と考えています。天皇家の血筋として5代前にさかのぼらなければならないという事と、越前から迎えられた事実、そして継体天皇という名前自身。可能性は否定できません。事実だとすると、正当ではない王朝に従う義務はないと磐井が考えても不思議ではありません。

 磐井の乱、詳しく考えていくと次々と疑問がわきあがっていきます。今後の研究課題です。