鳳山雑記帳はてなブログ

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中国古典の魅力(6) - 英雄項羽の最期 -

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項王の軍、垓下<(がいか)>に壁<(へき)>す。兵少なく食尽く。漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜、漢の軍の四面に皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、漢、皆已<(すで)>に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人<(そひと)>の多きや、と。項王則ち夜起ちて帳中<(ちょうちゅう)>に飲す。美人有り。名は虞<(ぐ)>、常に幸せられて従う。駿馬有り、名は騅<(すい)>、常に之に騎す。是に於いて、項王乃ち悲歌慷慨<(こうがい)>し、自ら詩を為<(つく)>りて曰く、
 力は山を抜き 気は世を蓋<(おお)>う。時利あらず騅逝<(ゆ)>かず。
 騅逝かず奈何<(いかに)>かすべき。虞や虞や若<(なんじ)>を奈何せん。
と。歌うこと数闕<(けつ)>。美人之に和す。項王、泣<(なみだ)>数行下る。左右皆泣き、能<(よ)>く仰ぎ視るもの莫<(な)>し。

                 - 史記項羽本紀・明治書院 新書漢文大系(17)より抜粋 -

 漢文を和訳する才能がないので、こちらから拝借しました。偉大な歴史家、司馬遷が記した「史記」のなかでも名文中の名文と呼ばれる「四面楚歌」そして該下の別れのシーンです。
 英雄項羽の生涯については、当ブログ「世界史英雄列伝」で紹介したので、簡単にここまでに到る経緯だけ紹介します。

 秦の始皇帝の死後、乱れた天下を治めるべく立ち上がった者たちで、生き残ったのは項羽と劉邦でした。広武山の対峙後(BC203年)和約を破り後方から攻めた劉邦軍に追われ項羽は垓下に立て籠もります。しかし、時代の流れは完全に劉邦にありました。
 かって「西楚の覇王」として大陸に号令した項羽の面影はなく、あとは滅びるのを待つばかりでした。包囲軍は漢の大元帥韓信を総大将に40万余。楚軍は1万にも満たない数でした。

 項羽はどうせ滅びるならと、最期の突撃を考えます。しかしその後の事を考えて自ら上記の詩を詠いその後、愛妾虞美人を刺し殺しました。そして手勢数百騎を率い城門を開きました。
 戦う事数度。楚軍の鬼神のような働きに漢軍は何度も敗走します。戦いの帰趨は知れているので、ここで死ぬのも馬鹿らしいと考えたのでしょう。
 
 しかし多勢に無勢、項羽以下傷を負っていないものは一人もいませんでした。烏江のほとりまでたどり着いた一行に、渡守は船で本拠江東に帰り再起するよう勧めます。
 しかし、項羽は笑ってこれを断り「自分を滅ぼすのは天だ。」といって追ってきた官軍に最期の突撃をします。
 敵軍の将が旧知の呂馬童であることを認めると、「お前に手柄をやろう」といって自ら首を刎ねて自害しました。英雄項羽、時に三十一歳。