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儒者の生き様 - 方孝孺の死 -

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 方孝孺は中国明朝初期の儒者です。1392年明の初代皇帝洪武帝に見込まれ皇太孫(後の建文帝)の教育係として仕えます。皇太孫が帝位に就くと翰林侍講学士に抜擢され、建文帝の側近として徳治主義による政治体制を目指しました。

 しかし、明王朝は初代洪武帝の猜疑心の深さから、建国の功臣を多く処刑し各地に封じられた王族にも圧迫政策を実行していました。これは建文帝時代も変わらず、無実の罪を着せられ獄に繋がれる帝室の一族が多く出ます。朝廷の官僚達にしてみれば、皇帝権力の確立のためにやむを得ない政策だったのでしょう。
 そして、その矛先は洪武帝の第四子で重要な北方民族にたいする押さえとして燕王(現北京付近)に封じられていた朱棣(てい)にまで向けられました。

 燕王朱棣は、どうせ殺されるならと反乱を起こし首都応天府(南京)に迫ります。もともと英邁であった燕王は、北方民族への押さえとして大軍を与えられていたのですが、それが仇となりました。これは1402年のことでした。世に言う「靖難の変」です。建文帝は炎上する宮殿で行方不明になり、抵抗するものはことごとく斬られました。方孝孺もこのとき捕まります。

 帝位に就いた朱棣は、後に永楽帝と呼ばれるので、以後永楽帝で通します。永楽帝は自己の謀反を正当化するために、儒者として高名であった方孝孺に、命を助ける代わりに即位の詔を起草するよう迫ります。

 しかし、方孝孺はこれを拒否します。そこで永楽帝は彼の家族や弟子達を捕らえ、詔を書かなければ彼らを処刑すると脅しました。しかし家族や弟子達800人余りを殺されても方孝孺は拒み続けます。そして最後に「燕賊簒位」(燕賊、国を奪う)と大書し永楽帝に投げつけました。激怒した永楽帝は、ついに方孝孺を処刑します。

 節を曲げない儒者の立派な死に様でした。しかし私が思うにどうせ殺されるなら、捕らわれる前に自害していれば家族や弟子達の犠牲はなかったのではないかと考えます。
 最後に直江兼続が、師である藤原惺窩に贈った言葉を流用して締めくくります。

「方先生、賢なりといえども男子にあらず!」