鳳山雑記帳はてなブログ

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湊川の合戦にはたして宮方の勝機はあったか?

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 私鳳山は歴史のIFを考えるのが三度の飯より好きです。いろんな歴史の場面でこうすれば勝てたんじゃないかと想像すると楽しくて仕方がありません。作家の柘植久慶氏もそれが好きらしく、逆撃シリーズなどで書かれているので、私も愛読しています。

 その中の一つ、建武三年(1336年)に現神戸市で戦われた足利尊氏と宮方の決戦、湊川の合戦は私が楠木正成贔屓なだけに残念な戦いでした。どうやったら勝てたか考える前に、簡単に状況を振り返ってみましょう。

 関東で新田義貞の追討軍を破った足利尊氏は、新田軍を追うように京都に入ります。しかし、宮方は京都防衛に固執せずあっさり明け渡しました。そして京に入る交通路を閉ざしたために足利軍は補給に苦しみます。さらに奥州にいた北畠顕家が大軍を率いて来襲したため、京を支えきれず捲土重来を期してひとまず九州に落ち延びました。
 それもただ敗走したわけではなく、後光厳上皇院宣を賜り後醍醐天皇とは別の官軍としての体裁をとりました。いわゆる南北朝の始まりです。そして播磨の赤松円心を白旗城に籠もらせ時間稼ぎをさせます。
 その間に九州で勢力を回復した尊氏は海陸五十万騎と号する大軍で上洛の途につきます。五十万という数は当時の日本の人口からいってありえないので、想像ですが実数5~6万というところでしょうか。
 それにしてもかなりの大軍だったということは間違いないでしょう。

 その間、宮方は迷走しています。宮方の大将、新田義貞赤松円心の術中にまんまとはまり、播磨に釘付けでした。貴重な時間を空費したのです。

 足利軍は水軍を尊氏、陸軍を弟の直義が率いていました。京都では楠木正成が宮方の不利を悟りいったん京都を明け渡してから、前回のように四境を閉ざして兵糧攻めにするよう献策します。しかし後醍醐側近の戦を知らない青公卿から「二度も京を明け渡すのはどうしたものか?」という愚にも付かないくだらない意見を出され、正成案は廃されました。
 死を覚悟した正成は、息子正行と桜井の駅で別れを告げ湊川の戦場に向かいます。

 こうしてわずか700騎の楠木勢は、足利の大軍のまえに獅子奮迅の活躍をみせ、ついに自刃してはてます。新田義貞はどうしていたかというと、後方でマゴマゴしている間に、細川定禅率いる四国水軍が後方の生田の森に上陸したため、背後を断たれることをおそれ背走しました。

 こうしてみてくると、宮方の逆転は不可能のように思えます。大将の新田義貞の凡将ぶりはあきれるばかりです。では、どの時点だったら可能だったんでしょうか?

 私は、尊氏が京を追われた直後がその時だったと思います。尊氏追い落としの最大の功労者、北畠顕家は京に止まることなく、奥州に反乱が起こったためすぐさま戻っているのです。私は南朝軍の総大将の器は彼しかなかったように思います。なぜ、南朝方は顕家を奥州に戻したのでしょう?
 奥州の反乱に新田義貞を派遣し(厄介払いともいえます)、顕家を征夷大将軍にすれば、もっと違う戦い方もできたんじゃないでしょうか?北畠氏は村上源氏なので、任官できたはずですから。

 そんな戦略眼を後醍醐天皇とその側近たちに求めるのは酷でしょう。あの建武の新政における統治能力のなさが証明しています。宮方に征夷大将軍にたいするアレルギーがあったのは事実です。しかし勝つためには武家勢力を味方に付けなければなりません。その点顕家なら武勇の点でも知略の点でも申し分ない人材でした。義貞は鎮守府将軍かなんかに適当に任官させておけばよいのです。

 もっとも、足利尊氏を滅ぼすことができても、宮方の政権は早晩瓦解したと思います。武士の支持を得ないことには政権がもたないからです。そんな現実が見えず、大義名分論などと寝ぼけた事を言っている間は天下の支配など不可能でしょうね。聡明な正成は、現実を認識していたからこそ自殺ともいえる戦いに赴いたのだと思います。

 結論から言えば、どちらにしろ宮方の逆転は大変難しいし、逆転できても政権維持はできなかったと言えるかもしれません。