鳳山雑記帳はてなブログ

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シャクシャインの乱 江戸時代初期に起こったアイヌの大反乱

 北海道静内町競馬ファンなら数々の名馬を生み出した牧場が存在する土地として有名でしょう。静内町はかつてアイヌ語でシブチャリと呼ばれていました。この地の首長シャクシャインが起こした反乱は、地元松前藩だけでなく弘前藩盛岡藩、秋田(久保田)藩まで巻き込む大騒動となります。これは1669年のできごとで、ときの将軍は四代徳川家綱でした。

 松前藩松前氏は元は蠣崎氏と言って秋田(安東)氏の被官でした。戦国時代南部家の家臣大浦為信が主家に謀反を起こし津軽半島一帯を占拠して津軽氏を名乗ります。これまでの一連の南部氏の侵攻でもともとこの地に勢力を張っていた安東氏は駆逐されました。蠣崎氏は安東氏の本土復帰を援け今の秋田県に当たる出羽北部に湊安東氏と檜山安東氏を興させる契機も作りましたが、安東氏の勢力の衰えもあって蝦夷地で独立勢力となります。

 蠣崎慶広は豊臣秀吉に臣従し公式に安東氏から独立した蝦夷の大名として認められ、1599年には徳川家康に服属し本領を安堵されました。慶広は松前氏と名を改め松前藩が成立しますが、当時の農業技術では稲作ができずアイヌとの独占交易権を江戸幕府から認められていました。アイヌの特産品である鮭、毛皮、昆布を和人の漆器、木綿、米、鉄などと交換する交易で一説では5万石から7万石に当たる収益を得ていたと言われます。

 当然、独占貿易ですから松前藩の立場が強くアイヌ騙されたり搾取させたりで日頃から不満がたまっていたそうです。江戸時代初期蝦夷地のアイヌ勢力はいくつかの勢力に分かれていました。とくに千歳から日高あたりに勢力を張るシュムクル(アイヌ語で西の人を意味する)と、静内以東の太平洋地域にいたメナシクル(メナシはアイヌ語で東あるいは南から吹く強風)はシブチャリ地方の漁業権を巡って激しく対立します。

 メナシクルの首長カモクタインが1653年シュムクルによって殺害されると、メナシクルの副首長だったシャクシャインは怒ってシュムクルとの対立を激化させました。一旦は松前藩の仲裁で講和しますが、これを機にシュムクルは松前藩と接近し有利な立場になりました。

 シュムクルの首長オニビシの甥がシャクシャインと同盟関係にあったウラカワで鶴を獲ったことで対立が再燃。シャクシャインはこの甥を殺してしまいます。オニビシは争いを仲裁すると称しシュムクルにやってきますが、シャクシャインはこの一行を殺害してしまいました。

 シュムクルは首長オニビシを殺されたことで怒り、松前藩に武器の提供を求めますが対立の激化を好まない松前藩はこの申し出を断りました。ところが帰途使節の一行でオニビシの娘婿であるウタフが疱瘡にかかり死亡します。これを松前藩による毒殺と誤解したシュムクルはもとより、アイヌ全体が松前藩に対する敵対感情を増幅させました。

 シャクシャインは敵対しているシュムクルに使者を送り松前藩に対するアイヌ全体の蜂起を呼びかけます。これがシャクシャインの乱の始まりです。松前藩は独占貿易を良いことにアイヌの産品を安く買い叩いたり騙して暴利を貪っていたこともあってアイヌの反感を買っていました。それがこの事件をきっかけに爆発したという事です。

 反乱には石狩地方のアイヌを除く西は天塩から東は釧路に至るアイヌが参加したと言われ、二千人のアイヌ勢は各地で和人に襲い掛かりました。西蝦夷地で143人、東蝦夷地で213人の和人が殺されます。事態を重く見た松前藩は家老の蠣崎広林を大将とする藩兵をクンヌイ(現長万部あたり)に派遣してアイヌ勢に備えるとともに、江戸幕府に支援を訴えます。幕府はこれを受けて、盛岡藩弘前藩秋田藩に出兵を命じました。

 実はアイヌ軍の中には和人が参謀として加わっており、蜂起を扇動したとも言われています。さながらベトナムインドネシア独立運動に参加した旧日本兵みたいな存在だったのでしょう。弘前藩では700名の藩兵を派遣し藩主一門の杉山吉成が指揮して松前城の警備に当たったそうです。この杉山吉成、実は石田三成の嫡孫で関ヶ原のあと津軽為信が三成の遺児重成を密かに匿っていたのです。梟雄と言われた為信ですが、豊臣家への恩を忘れず三成の遺児を保護するなど可愛げもあったようです。

 それはともかく、アイヌ軍は弓矢が主体でしたが鉄砲も27挺持っていたと伝えられます。当時鉄砲を16挺しか持っていなかった松前藩は慌てて弘前藩盛岡藩から借り受け70挺集めたくらいです。1659年6月に始まった反乱は8月に入っても決着がつかずクンヌイで対陣が続きます。この時の両軍の兵力ですが、アイヌ軍2000人、松前藩は諸藩の援軍を加えて同じく2000人くらいか?

 膠着状態に陥った戦闘ですが、この間松前藩は中立を保っていたアイヌ諸族の切り崩しを図りシャクシャインを孤立させました。このまま戦闘が長引くと交易できなくなるアイヌ側も焦りが生じ、結局シャクシャインの助命を条件に降伏します。ところがピポクで行われた和睦の酒宴の最中、シャクシャインは騙し討ちで殺されました。指導者を失ったアイヌ側は結束を失い松前藩に各個撃破されます。

 この反乱の結果松前藩アイヌ支配は強化されることになり、アイヌ民族の団結は失われました。最悪の結果に終わったのです。幕末になると、ロシアが北方地域に進出し小藩の松前藩では対処できなくなります。幕命により東北諸藩が蝦夷地を分割支配することになり、松前藩は東北地方に転封され4万石を与えられるも、7万石とも言われる巨額なアイヌ交易の利権を失ったため経済的に苦境に陥ったそうです。1864年松前崇広が老中に就任すると蝦夷地の旧領地の一部が返還されますが、箱館戦争によってふたたび蝦夷地から叩き出されます。

 その後蝦夷地は明治新政府の手に落ち北海道と改名されて現在に至ります。