江戸時代、現在の北海道に当たる蝦夷地は松前藩が支配していました。江戸初期は1万石格、後期に3万石格となりますが米はまったくとれず、家康が松前慶広に与えた朱印状はアイヌとの交易独占権を認めたものでした。サケ、昆布、ニシン、毛皮などの交易の収益は7万石相当にも上ったと言われます。
しかし、1800年代に入るとロシアが南下政策の野心を蝦夷地にも向け始めます。小藩の松前藩では守り切れないと危機感を持った幕府は1855年、松前藩の本来の領地である渡島半島西部を除いて蝦夷地を天領にします。しかし財政が苦しい幕府は、蝦夷地警備の役目を仙台藩、久保田藩、弘前藩、盛岡藩など東北地方の外様雄藩に命じました。これに親藩の会津や譜代の庄内も加わっていたのが幕末の蝦夷地の状況です。
金も出さないのに幕府は警備負担を各藩に強いたため不満が高まります。江戸初期の幕権が強いころならその不満を圧殺できたのでしょうが、末期には水戸藩が始めた尊王攘夷運動の影響もあり幕府の権威は相当衰えていました。各藩の不満をなだめるため、警備地の一部をその藩の領地として認めるという懐柔策を取り始めます。
ただこれも不公平で、早くから警備を担当していた弘前藩、盛岡藩には薄くほとんど領地を貰えませんでした。外様で規模も小さいと侮られていたんでしょう。弘前藩には5万石から10万石に格上げするという待遇を与えましたが、領地を貰ったわけでなくあくまで格式を上げただけなので余計に反感を買いました。もともと表高5万石で内高(実際の収入)32万石以上あったとされる弘前藩は有難迷惑で全く嬉しくなかったと想像します。
さらに悲惨なのは盛岡藩で、戦国時代から確執のある弘前藩津軽家が自分と同格の10万石になることに我慢ならず、幕府に猛烈に運動して20万石に格上げさせます。実は盛岡藩は当時表高10万石に対し内高は20万石でしたから、よけい台所が苦しくなるだけでしたが、プライドが許さなかったのでしょう。幕府としても蝦夷地の警備兵力は石高に応じで出すので警備兵力が増えただけでウハウハでした。幕府としては痛くもかゆくもなく、盛岡藩が自爆しただけという印象だったと思います。
さてこんな状況で幕末を迎えます。鳥羽伏見から始まった戊辰戦争で、将軍慶喜が家臣たちを裏切ってさっさと恭順謹慎したことから佐幕派の各藩が馬鹿を見ることになりました。特に京都守護職として勤皇の志士を斬りまくった会津藩(実際はその配下の新選組)に薩長の恨みが集中し、武力討伐は不可避となります。
その際新政府の不手際から外交に失敗し東北諸藩を敵に回すことになりました。とはいえ、早くから西洋事情に通じ洋式装備を揃え軍事訓練していた西国雄藩と違い、庄内藩、長岡藩を例外として大半の東北諸藩は火縄銃やそれに毛が生えた程度のゲベール銃を装備し軍隊も旧式でした。
英仏は局外中立を宣言しますが、その実新政府側を応援します。さすがに東北諸藩も従来の装備では薩長の洋式軍隊に対抗できないと知っていました。そこへ接近してきたのがプロイセン商人スネル兄弟です。スネルはゲベール銃の銃身にライフリングを施しただけのヤーゲル銃を東北諸藩に売りつけます。当時の東北諸藩は幕末の例に漏れずどこも財政難に苦しんでいました。
スネルは、銃の購入代金がないなら蝦夷地を担保にすればよいと甘い囁きをします。背に腹は変えられない東北諸藩はこの甘言に乗ってしまいました。実は武器商人スネル兄弟の背後にはプロイセン(後のドイツ)政府がいたと言われます。世界の植民地獲得競争に乗り遅れたプロイセンは蝦夷地を密かに狙っていたのです。
結局奥羽越列藩同盟は新政府に敗北し蝦夷地植民地計画はご破算になります。もし戊辰戦争が長引いていたら蝦夷地は99年プロイセンに租借されていたはずですから、危機一髪でした。その後、榎本武揚の蝦夷共和国にも似たような話があり、英仏が蝦夷地を担保に経済援助を申し出ていたと言われます。
新政府は、蝦夷地植民地化を避けるために鎮圧後、蝦夷共和国の借金を肩代わりしたそうです。結果論ですが、新政府側が勝って本当に良かったと思います。欧米列強が植民地にする手口は、その国の一方の勢力に肩入れし傀儡化、最終的に支配するというものでしたから、明治の元勲たちはその狡猾な意図を見抜いていたのかもしれませんね。