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妻を娶らば陰麗華

 支那の歴史上、どうしよもない悪女が多数登場します。その代表は前漢高祖皇帝劉邦の皇后で夫劉邦の死後漢王朝を乗っ取ろうとした呂后(呂雉)、唐三代高宗皇帝の皇后で夫を蔑ろにし国政を壟断した則天武后、清九代咸豊帝の側妃で事実上清を滅亡に追い込んだ西太后で、三大悪女に数えられます。

 ほかにも夏王朝を滅ぼした末喜、商(殷)王朝を滅ぼした妲己、春秋列国の一つ陳を滅ぼした夏姫、西周を滅ぼし周王朝を衰退させた褒姒など数え上げたらきりがありません。世界史上、悪女のしでかしたことは残るので彼女たちが有名になるのは仕方ないことかもしれません。一方善良な女性はなかなか残らないものです。

 過去に記事を書いた竇猗房(前漢五代文帝の皇后で六代景帝の母)などは稀有の例だと思います。こういった女性は賢いので子供の教育にも熱心で皇位を継いだ皇太子は大体名君になります。今回登場する陰麗華もそのような女性の一人です。

 前漢末期、南陽郡新野(しんや)県(現在の河南省南陽市に含まれる)の大豪族陰氏の娘に生まれた麗華(5年~64年)は近所でも評判の美人だったそうです。近隣の豪族の若者のあこがれのまとで後に後漢王朝を開く劉秀もその中の一人でした。麗華は男勝りで勝気な性格だったそうですが、聡明で優しくまさに理想ともいえる人だったと伝えられます。父の陰氏は麗華を溺愛し婚姻の申し出があってもことごとく断っていました。

 高嶺の花麗華を評して「妻を娶らば陰麗華」という言葉が流行ったとも伝えられますので、それだけ理想の美女だったのでしょう。

 平穏無事な時代なら地方の名もない女性で終わったかもしれません。しかし激動の時代です。前漢を簒奪した王莽は新を建国、周代の政治を理想とする時代錯誤な政策を行い世の中は大混乱に陥っていました。各地で反乱が相次ぎ、劉秀も兄の劉縯に誘われて反新の反乱に参加します。

 最初麗華の父陰氏は、反乱を苦々しく思い距離を置いていたともいわれます。ところが緑林軍に参加した劉秀兄弟は西暦23年昆陽の戦いで40万人とも言われる新の大軍を撃破、一気に勢力を拡大しました。陰麗華が劉秀に嫁いだのは同じ年の23年だったと言われます。

 ところが劉秀は河北を転戦し24年地元の有力豪族郭昌の娘郭聖通を娶りました。政略結婚だったと言われますが、郭聖通は25年皇子劉彊(りゅうきょう)を産みます。劉秀が25年(建武元年)皇帝として即位するとき、正室の陰麗華を皇后に立てようとしました。しかし麗華は男子を産んでいないことを理由に断り、皇后の座を郭聖通に譲ります。

 聡明な彼女は、大きな勢力を持つ郭一族との関係が壊れることを憂いたとも言われます。このあたり麗華の人間性がよくわかりますね。夫劉秀の地位の安定を自分の栄華より優先させたのですから。そんな彼女も28年皇子劉荘を産みます。

 後漢王朝が安定してくると、実家の勢力を背景に我儘し放題の郭皇后を劉秀は次第に疎むようになっていきました。ついに我慢の限界にきた劉秀は、41年郭聖通から皇后の地位を剝奪、劉彊も皇太子を廃されます。実は劉彊は自ら廃太子を申し出たとも言われ、我儘な母とは似ないできた人物だったようです。劉秀もそんな劉彊を哀れに思い、中山王、次いで沛王に封じました。劉彊は領地で善政を布き賢王とたたえられます。

 郭聖通は皇后を廃されたものの、劉秀は郭一族に配慮し諸侯に封じるなど配慮したため大きな混乱は起こらなかったようです。郭聖通自身も不満は抱きながらも反乱を企てるなどの大それたことはせず52年、46歳で亡くなりました。

 郭聖通が皇后を廃された時、陰麗華は晴れて皇后に立てられました。しかし聡明な彼女はけっして驕らず夫劉秀を助け賢夫人と称えられます。息子劉荘も皇太子に立てられ後漢二代明帝となりました。麗華は皇后となっても質素な生活を守り自身の一族にも大きな権力を与えなかったと言われます。64年陰皇后死去、享年59歳。

 陰麗華は、唐太宗の皇后長孫皇后、彼女の息子後漢明帝の皇后馬皇后(伏波将軍馬援の娘)と共に支那史上でも優れた皇后として称えられています。まさに「妻を娶らば陰麗華」ですね。