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世界史英雄列伝(29) エパミノンダスと『斜線陣』

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◇エパミノンダス BC420年?~BC362年   古代ギリシア都市国家テーベの将軍・政治家

 古代ギリシア世界独特の軍制として長槍密集歩兵陣、いわゆるファランクスがあります。長槍と盾を持った歩兵が密集してハリネズミのような戦列をつくり、敵にぶつかるという戦法で、古代世界においては戦象などの特殊な兵科を除いて最強であったと考えられます。これにまともに正面からぶつかって勝てる敵はありませんでした。最強というのは「まともに正面から…」という条件付ですが、背後や側面に回ると機動が難しいため、意外ともろいものでした。ローマはこの点をついて勝利します。

 ところで、ギリシアのポリス同士の戦いは、ファランクス同士のぶつかりであったため、戦列を持ちこたえた方が勝ちでした。盾の隙間から槍を突き、なんとか敵陣を崩そうとしました。少年の頃からいわゆるスパルタ教育で鍛えてきたスパルタ軍が最強の軍隊を持つのは当然でした。
 しかし、この最強スパルタ軍を劣勢の兵力で破った者がいます。勝つためのシステム「斜線陣」を発明して。それがこれから紹介するエパミノンダスです。

 エパミノンダスはBC420年ごろテーベで生まれました。家は没落貴族で貧しかったといいます。学問を志しピタゴラス派の哲学を学びます。彼の祖国テーべはBC385年スパルタに併合されました。親友ペロピダスとともに反スパルタ闘争に身を投じたエパミノンダスは、スパルタによって追放されていたペロピダスの帰国に尽力し、BC379年テーベの市民と共に決起、ついにスパルタから独立を達成します。

 ペロピダスの指導の下、テーベはスパルタに対抗するためボイオティア諸都市と結び「ボイオティア同盟」を結成します。スパルタはこの動きに怒り、懲罰軍を派遣します。ボイオティア同盟軍は全軍の指揮をエパミノンダスに委ねました。BC371年両軍はレウクトラの地で激突します。
 スパルタの兵力1万1千、ボイオティア同盟軍は6千でした。まともに戦っていては勝ち目はありません。エパミノンダスは主力のテーベ軍の戦列を極端に厚くし(50列)、その衝撃力で戦いを決しようとしました。

 最左翼に位置するテーベ軍が、敵右翼のスパルタ軍主力を粉砕するまで弱兵である同盟軍の接敵を避けなくてはなりません。そのため斜めに布陣し後退させました。これが世に言う「斜線陣」です。
 戦いはエパミノンダスの思惑通りに進みました。いかに精強なスパルタ軍といえども、倒しても倒しても戦列が崩れないテーベ軍に苦戦します。疲労の色が見え、戦列に隙間が生じた時、テーベ軍最精鋭の神聖隊がそこへ突撃、耐えられなくなったスパルタ軍右翼は敗走します。無傷の中央、左翼も右翼に引きずられて崩れました。大勝利です。ギリシアの覇権は新興国テーベのものになりました。

 しかし、テーベの覇権は長く続きませんでした。同盟していたアテナイがしだいに反感をつのらせ、秘かにスパルタと手を結びます。BC370年、エパミノンダスは兵を率い、スパルタの本拠地であるペロポネソス半島に遠征しました。ところがはかばかしい結果を出せなかったため、政敵によって一時追放の憂き目にあいます。

 BC362年、スパルタ・アテナイ連合軍はテーベを襲う構えを見せました。この国家の危機にエパミノンダスは再び指揮権を委任されます。そして同年、マンティネイアの戦いで、スパルタ・アテナイ連合軍を破る事に成功しました。ところがこの戦いでエパミノンダスは敵の放った槍を受けて戦死してしまいます。以後、テーべは振るわずマケドニアの軍門に下りました。
 皮肉な事に、マケドニアのフィリッポス2世は人質として若い頃テーベに送られ斜線陣を学んでいました。そしてそれを改良しカイロネイアの戦いで使用、大勝利します。
 まさに彼こそが、エパミノンダスの正当な後継者といえるでしょう。