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古代都市国家テーベの最期

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 古代ヘラス(ギリシャ人が呼んだ自分たちの都市国家群=文明世界の呼称。)はスパルタとアテネアテナイ)を中心として発展しました。


 しかし、ボイオティア地方で政治にペロピダス、軍事にエパミノンダスという二人の傑物によって急速に台頭したテーベ(テーバイ)が、レウクトラの戦いで有名な斜線陣を使って強国スパルタを破ったことによって3極時代を迎えます。

 泥沼のペロポネソス戦争を経験した後では、ヘラス世界はそれ以上の発展を望めなくなっていたのです。文明が停滞したヘラスの周辺部では、ギリシャ人たちがバルバロイ(蛮族)と蔑んだ国、都市国家を形成せず部族国家の域を出ていなかったマケドニアが、英主フィリッポス2世によって俄かに強大化しヘラスの覇権に挑戦しました。


 紀元前338年、カイロネイアの地でマケドニアと、ヘラスの代表選手であるテーベ・アテネ連合軍が激突します。兵力はどちらも3万前後でしたが、皮肉にもエパミノンダスの斜線陣を人質時代にテーベで学び、独自に発展させたフィリッポス2世の「ハンマーと金床戦術」によって連合軍は完膚なきまでに叩き潰されます。

 以後マケドニアのヘラスに対する指導的立場が確定し、スパルタやアテネのような旧大国といえどもフィリッポスに対し、面と向かって楯突くことができなくなりました。


 各国は反マケドニア派の政治家たちを追放し、親マケドニア派の政治家による集団指導体制に移行せざるを得なくなります。特に反抗的だったテーベは、政権交代だけでなく都市の象徴たるアクロポリス「カドメイア」にマケドニア軍の駐留を認めるという屈辱的講和を結ばされました。



 しかし、フィリッポス2世は念願のアケメネス朝ペルシャヘの遠征に入る目前の紀元前336年暗殺されてしまいます。後を継いだのは嫡男アレクサンドロス3世、後に大王と呼ばれるその人です。このとき20歳でした。


 国王の代替わり直後は、どの国でもある程度不安定になるものです。しかもアレクサンドロスは父の遺志を受け継ぎペルシャ遠征を実行するつもりでしたから、王位を継ぐとすぐ後顧の憂いを断つためトラキア、サルマティアなどへの遠征に向かいます。

 剽悍な山岳民族に苦戦するマケドニア軍でしたが、この遠征でドナウ河流域まで達したと伝えられますから一応成功だったといえるでしょう。



 しかし、国王の不在は反マケドニア勢力にとっては抗し難い誘惑です。希望的観測からアレクサンドロスが遠征先で戦死したという噂が流れるほどでした。


 反マケドニアの急先鋒テーベでも、国内に残った民衆派(=反マケドニア派)が国外追放されていた民衆派の指導者たちを呼び戻し一斉に蜂起、マケドニア派の政治家を殺し、駐留マケドニア軍をカドメイアに包囲しました。紀元前335年のことです。マケドニア軍は、カドメイアを城塞化していたためすぐには落ちませんでしたが、糧道を断たれていため陥落は時間の問題でした。


 急報を受けたアレクサンドロスは、すぐさま3万5千の軍勢を率いて取って返します。テーベ反乱軍の指導者たちは、すっかりアレクサンドロスが戦死したと信じこんでいたため、マケドニア軍が接近したという報告を受けても別のアレクサンドロスという将軍が攻めてきたと勘違いしていたくらいです。古代においては同名が多く、事実マケドニアにも何人もアレクサンドロスという名前がいました。


 軍を率いるのがどうやら国王本人であるらしいと気付いた時には手遅れでした。野戦の機会を失い、マケドニア軍によってテーベ市はすっかり包囲されてしまいました。


 アレクサンドロスは、包囲した後もしばらくは攻撃を控えました。テーベの指導者たちが反省して降伏するのを待っていたとも言われています。しかしテーベ側はこのせっかくのチャンスを逃し、徹底抗戦をする構えを見せました。


 放っておいてはカドメイアの友軍が飢えてしまうため、アレクサンドロスはついに攻撃命令を下します。もともと火事場泥棒的に蜂起し籠城の準備をろくにしていなかったテーベは、マケドニアの精鋭の前に城壁を簡単に突破され敗北しました。


 マケドニア軍は無抵抗の市民には危害を加えなかったといいますが、残虐だったのはかってボイオティア同盟下でテーベの支配を受けていた諸都市の兵たちでした。過酷なテーベ支配に対する恨みが深かったためと伝えられています。


 アレクサンドロスの戦後処理は過酷を極めました。マケドニア派で今回の蜂起に反対し弾圧を受けていた市民を除くすべての住民を奴隷に売り、テーベの町も復興できないように徹底的に破壊されます。


 これを見ていたアテネ、スパルタは震え上がりました。アテネはデモステネスなどがテーベの反乱に呼応する動きを見せていましたからなおさらです。


 冒頭の地図(ペロポネソス戦争当時の地図ですからちょっと古いですが…)を見ていただくと分かる通り、テーベのあるボイオティア地方と、アテネのあるアッティカ地方はすぐ隣にあります。


 アレクサンドロスの過酷な処理は、他のヘラス諸国への無言の圧力でもあったのです。各都市は争ってマケドニアに恭順する使者を送りました。アレクサンドロスは他の都市は寛大に接しましたが、アテネには反マケドニア派の政治家全員の追放を要求します。

 初めは言を左右にしてごまかそうとしたアテネ側も、マケドニア軍が一向に引き上げないのを見てアレクサンドロスの本気を悟ります。反抗の態度を見せればすぐ南下してアテネを包囲できる位置にいたからです。おそらくアテネに味方する都市はいないでしょう。それは伝統あるアテネの滅亡、テーベのように跡形もなく消し去られることを意味しました。



 ついにアテネも屈服します。危機を悟ったデモステネスが亡命したのをはじめ、反マケドニア勢力はことごとく追放されました。



 こうして再びギリシャ世界を統一したアレクサンドロスは、紀元前334年念願の東方遠征に向かいました。




 テーベのその後はどうなったでしょうか?大王死後の後継者戦争の時、ディアドコイの一人であるカッサンドロスが一時的に復興しますがかっての栄光を取り戻すことはできませんでした。


 アンティゴノス朝マケドニアの支配を経て、最終的にはローマの支配下に組み入れられます。しかし一地方の小都市以上ではありませんでした。それはギリシャ全土でさえそうでした。もはやギリシャの時代ではなくローマが地中海世界の主人公だったからです。