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西南戦争 田原坂の激闘

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 もう十年以上昔でしょうか?日本テレビ系列で年末時代劇「田原坂」(たばるざか)が放映されました。里見浩太郎が主人公西郷隆盛を演じ、涙あり感動ありで、おぼえている方も多いんじゃないでしょうか?
 題名の田原坂西南戦争中最大の激戦地で、この戦闘に破れた薩軍は組織的抵抗力を失い敗残をかさね最後は故郷鹿児島の城山で全滅します。
 西南戦争のターニングポイントともいえる重要な戦場ですが、私鳳山の故郷からあまり遠くないので何回か訪れた事があります。
 戦いの経過を簡単に振り返ると、まず明治新政府の挑発に乗った薩摩私学校党が蜂起、担ぎ上げられた西郷がやむなく起こした戦で「政府に尋問の筋これあり。」と掲げ1万5千の兵力で薩摩を北上します。
 まず、迎え撃つのは名将谷干城(たにたてき)率いる熊本鎮台兵3千。中にはのち日露戦争で活躍する児玉源太郎も少佐として籠城軍にいました。
 明治新政府は、事態に驚愕し各地から兵力をかき集め九州に差し向けます。その第1弾として小倉の歩兵第14連隊が南下します。連隊長は有名な乃木希典(のぎまれすけ)少佐。
 谷干城指揮下の熊本城は頑強に抵抗し、攻めあぐねた薩軍は若干の押さえを残して北上します。乃木連隊と薩軍は熊本北方の植木で激突。兵力に勝る剽悍な薩軍によって乃木連隊は大敗、軍旗を奪われると言う屈辱を味わいます。乃木はこのことを終生忘れず苦にしていたとか。それが明治天皇崩御の際に殉死した遠因になったとも伝えられます。
 敗走を重ねた乃木連隊は、玉名市石貫の地に逃げ込みますが、南関から南下した野津少将の第1旅団の救援を受け一息つきます。ようやく兵力がそろってきた官軍は菊池川の線まで北上した薩軍と対峙。蛇ヶ谷丘陵と羽根木台地に塹壕を掘り火力の力で薩軍を迎え撃つべく待ち構えます。
 菊池川を挟んだ戦闘は激烈を極め、西郷の弟、小兵衛がこの戦いで戦死します。山鹿の戦闘でも破れた薩軍田原坂の天険によって官軍の南下を防ごうとします。
 ここで田原坂が登場するのですが、熊本市から伸びる台地の北端に位置し大砲の通れる道はここしかありませんでした。もう一つ吉次峠もありますが、田原坂と近く薩軍は両方とも防備しました。
 なぜ田原坂が激戦になったかというと、それは加藤清正に原因がありました。清正は熊本城を防衛する際、この田原坂に注目し、道の両側を高くした堤道とし下から攻め上る敵を坂上から狙い撃ちできるよう改造したのです。上からは敵軍の接近が手に取るようにわかります。皮肉にもこのときは使われず、300年たってから利用されました。
 激戦は3月4日から20日まで続き、西郷軍の至宝として将来を期待された篠原国幹吉次峠で戦死します。火力に物をいわせた官軍の物量作戦に、薩軍は抜刀隊による夜襲で対抗しました。このときの戦闘の凄さを物語るものとして「出会い弾」というのがあります。薩軍官軍双方から撃たれた弾が空中で激突して重なったものです。1日に32万発消費されるという猛烈な火力戦でした。これは日露戦争の記録を上回るものです。薩軍の兵力もピークの3万。なかには各藩の諸隊も加わり、宮崎八郎率いる熊本隊もいました。
 官軍は最終的には7万の兵力を終結させます。力尽きた薩軍田原坂を放棄、以後は組織的抵抗力を失いました。
 今は公園として整備されている田原坂、興味のある方は是非訪れてください。当時の若者たちが命を削った田原坂に立って歴史はこのような犠牲を払って出来上がるということを感じていただければ幸いです。