鳳山雑記帳はてなブログ

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明治六年の政変 - 英雄野に下る -

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 明治三年(1870年)、明治新政府は難問山積の諸問題に当たらせるため西郷、大久保、木戸らを参議に任じました。
 明治四年(1871年)には廃藩置県を断行します。外国なら大反乱が起こるほどの改革でしたが人望厚い西郷隆盛の存在でかろうじて押さえている状態でした。
 同年11月、岩倉具視を正使、大久保利通木戸孝允を副使とする「岩倉遣外使節団」が出発します。
 大久保は、留守をまもる板垣ら参議に、重要法案は自分たちが帰るまで先延ばしにするよう要請しました。しかし、彼らが出発したとたん、大問題が発生したのです。

 事の発端は、維新の混乱で国交の途絶えていた李氏朝鮮に、国交回復のための使者を出した事から始まりました。日本とおなじく鎖国をしていた李氏朝鮮は、明治政府の使節を門前払いします。ばかりでなく、侮辱をもって応えたため日本の世論は激昂します。板垣退助などは、「即刻、朝鮮に出兵し懲らしめるべき」と主張しました。
 これに対して西郷は、まず礼を尽くすべきだと主張、自らが赴いて直談判しそれでも決裂した場合にはじめて武力行使すべきであると主張しました。よく、西郷を征韓論者と論じますが、これを見ても単純な征韓論者とはいえません。もちろん西郷とて、困窮する士族の救済策としての朝鮮出兵が頭の中に無かったといえば嘘になるでしょう。全国士族の輿望を一身に受けていた西郷が、彼らの窮乏を見てみぬ振りはできなかったでしょう。

 明治六年8月17日には、西郷の朝鮮派遣が閣議で決定しました。しかし、9月17日に岩倉使節団が帰国します。大久保は、約束していたにもかかわらず徴兵令(明治六年)などの重要法案が勝手に施行されていたことに激怒します。征韓論が主流になりつつあることにも大反対でした。
 大久保の主張は「今は外征する時ではない。まず国内を固めるべきだ。」というものでした。たしかに一理ありますが、西郷は何も戦争に行こうとしているのではありません。外交によって解決しようとしていただけでした。しかし、薩長に対抗する板垣退助(土佐)、江藤新平肥前)らは、西郷を担ぎ出し勢力拡大を狙っているという事実も裏にはありました。
 こうして征韓論は、内治と外征の問題ではなく、薩長と土肥の新政府内での勢力争いの様相を呈していきます。そのなかで一人、西郷だけが純粋に朝鮮行きを希望し続けました。

 両派の争いにノイローゼになった太政大臣三条実美が突如辞任します。右大臣の岩倉具視が代理に就任しました。大久保と気脈を通じる「政界の寝業師」のすさまじい宮廷工作が始まりました。10月23日、西郷の朝鮮派遣を決めた閣議決定とまったく逆の事を、岩倉は明治天皇に奏上しました。
 大久保派の逆転勝利です。絶望した西郷は参議を辞職、野に下りました。明治新政府は大久保が実権を握ります。しかし彼の改革は、士族をさらに苦しめるものでした。

 不満を持った士族たちは、佐賀の乱秋月の乱と次々と立ち上がりました。そして大久保は、故郷鹿児島に帰り、私学校を創設、教育と開墾で理想郷を作ろうとしていた西郷を危険視します。新政府の徴発に乗った私学校生徒が暴発、明治十年、西郷はついに立ちました。世に言う「西南戦争」の始まりです。

 西郷は維新のさまざまな矛盾を、官軍薩軍1万3千の犠牲者を道連れに、己が死によって解決したともいえます。ただここで死ぬには惜しい人材でした。