鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

伊予西園寺氏

 

 

 マイナーな日本史記事が続きまして申し訳ございません。いつものごとく興味のない方はスルーお願いします。

 

 実は前々から気になっていた事でして、伊予の戦国大名西園寺氏って堂上貴族清華家五摂家に次ぐ家格、極官太政大臣)の西園寺家の一族ではないかと思い今回調べてみるとその通りでした。

 鎌倉時代末期、内大臣西園寺実衡庶子公良(きんよし)が所領のある伊予国宇和庄に下向し武士団化したのが始まりだそうです。もともと宇和庄は橘家の所領だったと言われます。ところが平安末期から鎌倉時代初期の太政大臣西園寺公経(きんつね、西園寺家の実質的な祖)が幕府に運動し強引に奪ったのが始まりでした。宇和庄は宇和郡の大部分を占めるのでしょう。このあたり愛媛県郷土史に詳しくないのでご存知の方はご一報ください。

 現在の愛媛県にあたる伊予国太閤検地で37万石ある大国です。律令での区分は上国にあたり四国随一の豊かな国でした。他の讃岐、阿波は20万石前後、土佐に至っては10万石弱です。江戸期に土佐を支配した山内家が22万石と称したのは無理に無理を重ねた結果で、厳しく検地し幕府が大名の格式や軍役を定めた表高と実質的な収穫高である実高の差は殆どなかったと言われます。余談ついでに言うと、土佐藩山内家は22万石の格式を守るために領民を苛斂誅求しその不満を土佐郷士が爆発させ維新に繋がったのでしょう。

 実は宇和郡だけで土佐一国に相当する10万石あります。江戸期伊達政宗の庶長子伊達秀宗がこの地に入部した時も10万石でした。伊予と言えば水軍で有名な河野氏がいますが、他に大洲城を中心に喜多郡に勢力を張った伊予宇都宮氏などがいます。豊かで統一勢力がない国は戦国時代周辺大名の草刈り場になりがちですが、伊予国も例外ではなく中国の毛利氏、土佐の長宗我部氏の侵略を受けました。

 隣国土佐にも中村御所一条氏がいましたが、公家出身の大名というのはおっとりしていたのか我が物顔で所領を奪う戦国大名にはなりにくかったのでしょう。伊予西園寺氏最後の当主公広(きんひろ 1537年~1588年)は、家督を継ぐと1568年河野氏、中国の毛利氏と結んで伊予宇都宮氏、土佐一条氏、津野氏らと鳥坂峠の戦いで勝利するなど活躍しますが、1572年逆に一条兼定を攻めた時には兼定と姻戚関係にある豊後の大友宗麟に攻められ大敗しています。そして1584年長宗我部元親の侵攻を受け降伏しました。さらに翌1585年には豊臣秀吉四国征伐小早川隆景に攻められ降伏しています。

 踏んだり蹴ったりの伊予西園寺氏ですが、不幸はまだまだ続きます。秀吉の四国仕置きで所領を没収、伊予の支配者となった小早川隆景に従いました。その後秀吉の家臣戸田勝隆が宇和郡7万石の領主として入部します。勝隆は武断政治で臨み西園寺公広と家臣たちに住んでいる城からの退去を要求、公広は九島の願成寺に隠居しました。

 勝隆の武断政治は領民の反発を受け旧西園寺家臣を中心とした大規模な一揆が起きます。鎮圧に苦慮する勝隆は、公広が背後で操っていると邪推し、「毛利氏の斡旋で公広に本領安堵の朱印状が出た」と嘘をついて公広を自邸に招きました。公広も罠だと知りつつ、逆らってもいずれ殺されると覚悟します。公広自身は一揆とは無関係だったとされますが、饗宴中に戸田家の刺客に襲われ包囲され自刃します。同行していた公広の家臣50名も壮絶な斬り死にしたそうです。

 とばっちりを受けたのは、同じく伊予の旧領主であった伊予宇都宮氏の一族で、戸田勝隆は伊予西園寺氏、伊予宇都宮氏という旧勢力をことごとく滅ぼしたことになります。

 似たような話は伊予宇都宮氏と同族の豊前宇都宮氏(城井氏)にもあります。こちらは黒田如水、長政親子に謀殺されました。おそらく全国で豊臣大名による旧支配層の粛清が行われたのでしょう。戦国時代を生き残るのは本当に難しいと実感します。

常陸大掾(だいじょう)氏

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※ 家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 最近の日本史記事はマニアックで本当に申し訳ございません。興味ない方が大半だと思うのでスルーお願いします。

 常陸(現在の茨城県の大部分)大掾氏は平安時代以来の歴史を誇る名門です。その家祖は桓武平氏嫡流になった常陸太郎貞盛の弟繁盛。懐かしのNHK大河ドラマ風と雲と虹と』では一文字隼人(仮面ライダー2号佐々木剛)が演じてました。そういえば兄貞盛は大岡越前将軍様(吉宗)役山口崇が演じてましたな。兄弟の父で将門の父良将の土地を横領し関東騒乱の元凶となった国香役は三代目黄門様の佐野浅夫。主人公将門は大岡越前加藤剛。国香の弟(将門の叔父)で房総平氏の棟梁良兼に長門勇、その弟良正は蟹江敬三と味のある俳優ばかりでした。もう一人の主人公藤原純友緒形拳風と雲と虹とは私が大好きな作品で、歴代NHK大河でも三本の指に入る大傑作だと思います。

 それはそうと貞盛の子孫が官途に就いて常陸を出て行ったため、常陸平氏は繁盛の子孫が継承しました。ちなみに貞盛の子孫から伊勢平氏平清盛、伊豆の北条氏が出ています。大掾というのは常陸国府の三等官です。日本史で「かみ すけ じょう さかん」という言葉を習ったと思います。国府で言うと「かみ」が長官の国守、「すけ」が次官で介と書きます。ただ常陸においては大掾が次官でした。というのも常陸、上野、上総の三国は親王任国といって国守に親王が任ぜられ地方には赴任しないため、実質次官である介が長官だったからです。

 常陸太閤検地で53万石という大国だったため三等官の掾に大掾少掾の二人を置きました。平安時代中期から繁盛の子孫が大掾氏と称したかは疑問ですが、少なくとも鎌倉幕府を開いた源頼朝によって常陸大掾職を与えられ以後独占したために大掾氏を称しました。ただ隣国下野から入った宇都宮一族の小田氏、常陸北部に勢力を持つ常陸源氏佐竹氏がいたためにその支配地域は国府のあった現在の石岡市を中心に常陸中部に限定されます。

 大掾氏のような歴史を持つ古い家は戦国期になると衰えるものですが、大掾氏も例外ではなく佐竹氏や水戸地方に興った江戸氏、小田氏の勢力に押され衰退しました。常陸では佐竹、大掾、太田などが上杉派、小田氏が後北条派で抗争を繰り返します。ところが佐竹陣営の中でも争いが発生し大掾氏は江戸氏と合戦に及びました。

 豊臣秀吉後北条氏を攻めると、要領の良い佐竹義重はいち早く小田原に参陣し秀吉から本領安堵のお墨付きを得ます。ところが大掾氏は時勢が読めず参陣しなかったため戦後領地を没収されました。佐竹義重が狡猾なのはこの時大掾氏や江戸氏の所領も自分の領地だと秀吉に申告していたことです。このあたり津軽為信とそっくりですね。義重は秀吉の朱印状を盾に大掾清幹に領地明け渡しを要求。拒否されると待ってましたとばかり府中城を攻撃します。多勢に無勢、清幹は自刃し平安中期以来の歴史を誇る大掾氏は滅亡しました。1590年の事です。

 さらに義重の息子で家督を継いだ義宣は、大掾氏の一族だった行方、鹿島氏ら三十三館主を居城太田城に招き、そこで謀殺します。やり口がえげつないですが、秀吉のお墨付きという大義名分を最大限利用した佐竹親子の作戦勝ちだとも言えます。戦国時代を生き残るのは本当に難しいですね。

これシナ人民解放軍本気だわ

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【FNN独自】中国に地上絵、沖縄のアメリカ軍嘉手納基地ターゲット?

 

 これどう見ても言い逃れできないでしょ?シナ人民解放軍は対米戦争を本気で準備しているみたいです。巷で言われている台湾侵攻、その際米軍に邪魔されないため沖縄の嘉手納基地、本土の佐世保、横須賀、岩国、三沢など主要在日米軍基地と日本の自衛隊基地を同時攻撃するつもりのようです。もし韓国がまだレッドチーム入りしていなければ半島の在韓米軍基地も当然ターゲットになります。

 常識的に考えたらアメリカと戦争しても勝つ可能性は限りなく低い。アメリカの次期大統領がバイデンになって認知症が悪化し何もできなくなるなどシナに有利な不確定要素がない限り無理でしょう。ただどちらにしろアメリカ議会は共和党民主党関係なくシナに対しては強硬ですから最終的にはアメリカが本気で軍事介入しシナ共産党政権崩壊になるでしょう。

 おそらくシナの目論見はアメリカが本格参戦するまでのわずかな時間で一時的に在日在韓米軍の機能をストップさせ、台湾に電撃的に侵攻、あとは台湾国民を人質にしてシナに有利な停戦協定を結ぶということかもしれません。経済的結びつきなど常識的な考えで戦争はないと思っているお花畑連中は、人類の歴史が戦争の歴史であり、戦争勃発が理性的判断ではなく偶発的に始まるか、当事者だけが思っている勝算によって始まるという事を理解しているのでしょうか?

 誰かが言っていましたが、現在のシナの置かれている状況は大東亜戦争に追い込まれた日本とそっくりだそうです。経済的に追い詰められ戦争に訴えるしか選択肢が無くなった状態。私は当時の日本以上に状況は悪いと思いますね。ABCD包囲網よりもさらに最悪、シナの味方は戦力として頼りにならない南北朝鮮だけなんですから。パキスタンもイランもいざとなったら見捨てると思いますよ。誰だって負けると分かっている陣営にのこのこ参加する馬鹿はいません。中立なら良い方。ロシアは最初中立、シナの敗北が確定したら得意の火事場泥棒で旧満洲地区を占領するでしょうね。これで念願の不凍港確保です。日本にとっては旅順、大連が要塞化され日露戦争の悪夢再びですが…。

 そうなる前に日米共同で旧満洲地区をいち早く抑える必要はあるでしょうね。有事になった時の想定も日米ですでに摺り合わせしておく必要はあると思いますよ。いくら平和ボケ日本政府でも何もしていないという事はないと信じたいですが…。していなかったら、さらなる脅威を招くでしょうね。


 その前に、シナ人民解放軍の電撃的台湾侵攻も成功するとは思えませんが。まず大陸に近い金門島はどうする?全島要塞化されていますよ。金門島巡航ミサイルの飽和攻撃で無力化できたとしても台湾は広い。シナ人民解放軍の上陸能力は現在どれくらいなんでしょうか?一昔前だと2個連隊くらいしか一度に上陸させられない程度だったようですが。

 数年前のデーターだとドック型揚陸艦の071型が8隻で海軍陸戦隊8個大隊。072Ⅲ型戦車揚陸艦15隻の水陸両用戦車10両×15で150両、海軍陸戦隊が合わせて15個中隊。すべて動員できたとしてもせいぜい1個師団強。それ以外にどれくらいあるか知りませんが、最大2個師団も運べないと思いますよ。大量の漁船に兵士を乗せて運べばよいなどと現実を知らない阿呆が言ってますが、現代戦は補給がなければただの的。おそらく補給も考えたら2個師団同時に上陸させるのも無理だと思いますよ。この程度だと広大な台湾を短期間で占領するのは無理。航空優勢は一時的に握れるかもしれませんが、台湾軍は精強だから米軍の来援まで持ち堪えられると考えます。ですから電撃占領など夢のまた夢。

 米海軍の潜水艦戦力を舐めない方が良いでしょうね。奇跡的に地上部隊が台湾に上陸できても補給物資を運ぶシナの輸送船はすべて撃沈されるでしょう。護衛の艦船諸共ね。もしかしたら日本の潜水艦もシナ輸送船団攻撃に参加するかもしれません♪海中なんで証拠はないですしwww有事になったら関係ないか?これも専守防衛の範囲♪あと、シナの主要港は日米がばら撒いた機雷によって数日で機能喪失すると思いますよ。

 日本は間違いなく巻き込まれます。在日米軍基地攻撃と日本の自衛隊基地攻撃は同時に行われるでしょうから。その際、日本国内でテロを起こされないように今のうちに不逞外国人と反日左翼は処分しておく必要があります。もう残された時間はありません。甚大な被害は出るでしょうが、日本を守るためには我々国民も覚悟を決めましょう。戦争が好きな人間なんでいません。ただ巻き込まれる戦争なら、何とかして生き残る道を探るのが当然でしょう。

 皆さんはシナ人民解放軍の本気度、どのように判断されますか?





追伸:
 嘉手納基地ではなく台湾の台中国際空港ではないかと指摘する意見もあります。だとしたら尚更危険です。

古代支那の兄弟の呼び方

 古代支那史に関心のない方にはチンプンカンプンだと思うのでスルーお願いします。

 俗に伯仲叔季という言葉があります。これは古代支那で兄弟の順番の呼び名です。伯が長男、仲が次男、叔は三男以下、季は末っ子を表します。四人兄弟なら綺麗に当てはまるんですが、それ以上だと叔が何人もいることになります。これとは別に長男を表す言葉に孟があります。例えば春秋時代晋で宰相となり権力を振るった趙盾。彼は家臣や部下から趙孟様と呼ばれました。

 これは伯が嫡流の長男、孟は嫡流庶流関係なくすべての兄弟の長男という意味です。ですから実質次男や三男でも正室の最初の子なら伯と呼ばれることになります。この場合孟と伯が別々に存在するということです。

 儒教の祖孔子関係の歴史書にも孔子の祖国魯の国政を壟断した三桓氏という大豪族が出てきます。三桓氏というのは魯第15代君主桓公の息子慶父(孟孫氏【仲孫氏とも言う】)、叔牙(叔孫氏)、季友(季孫氏)を家祖とする公族です。孔子の時代には魯公を挿げ替えるほどの実力を持つほどの勢力を誇りました。孔子が祖国を叩き出されたのは三桓氏と対立したからだとも言われます。

 三桓氏のうち、孟孫氏ですが桓公のあと16代を継いだのは長男荘公ですから彼が伯のはず。孟孫子の祖慶父は仲孫氏とも呼ばれます。どういうことか私なりに考えたんですが、本来は長男である慶父は母が側室だったために荘公の弟とされ次男を意味する仲孫氏と呼ばれたのかもしれません。

 魯は周の武王を助けた弟で聖人である周公旦を祖とする由緒ある国ですが、三桓氏のような公族が権力を振るうようになったため公室の力が衰え衰退したのでしょう。もともと隣国で太公望姜子牙(呂尚)を祖とする斉よりも中原に近く有利な立場にあった魯ですが、周公旦の方針である公族を大事にしすぎたために衰えました。逆に斉は太公望の方針で家臣をあまりに大事にしすぎたために権臣田氏に乗っ取られたのでしょう。

 国を保つのは本当に難しいですね。バランスが一番大事です。孔子が中庸の徳を最上としたのは祖国魯の惨状と隣国斉の行く末を見て思い立ったのかもしれませんね。何事も極端が良くないのでしょう。我々の生き方にも参考になります。

シナ人民解放軍、DF-17を実戦配備。日本の防衛は大丈夫か?

【香港紙】中国、台湾対岸に「極超音速」新兵器配備か マッハ5 現技術では撃墜不可能

 シナ人民解放軍が台湾対岸の福建省極超音速滑空弾DF-17を実戦配備しました。DF-17がどういうものかというと射程2500㎞、弾頭部が通常のミサイルと違い偏平になっており終末時マッハ5という高速で不規則な動きをしながら命中するという厄介な兵器(極超音速滑空体)です。通常のミサイル防衛システムでは迎撃が困難だと言われており日本の国防にも不安が増大しました。

 射程2500㎞というのは台湾を攻撃するにはオーバーキルで明らかに日本にある米軍基地、そして自衛隊基地を射程に収めています。福建省厦門から東京までが2500㎞、もし山東半島からなら北海道の千歳基地まで射程に入ります。という事は米軍の嘉手納基地、普天間基地佐世保、横須賀、岩国はもちろんの事、青森の三沢基地(日米共同使用)まで射程に収めたという事です。これは当然で、もし人民解放軍が台湾進攻する場合、それを邪魔する米軍や日本自衛隊の基地を叩くのがセオリーだからです。

 終末時の不規則な動きをするDF-17をTHAADやパトリオットPAC-3で迎撃するのは難しいと言われており、日本の国防にも大きな穴ができます。終末時の迎撃が困難ならどうすれば良いか、普通の常識があれば分かりますよね。敵がミサイルを発射する前に叩くしかありません。日本国民の命を本気で考えるのであれば。一発撃たれてから反撃などと寝とぼけたことを言っていると、何もできないまま座して死を待つこととなります。現代戦は先に撃った方が圧倒的有利です。防衛側は敵の飽和攻撃で継戦能力を一気に喪失することもあり得る。となると戦わずして全面降伏です。チベットウイグルが他人事だと思っていると大間違いですよ。

 一応アメリカもDF-17に対抗する性能向上型のSM-3やTHAAD-ERなどを開発中だと言われますが、予想外に早くDF-17が実戦配備されたために完成するまでのタイムラグが生じました。もしDF-17に戦術核が搭載され発射されたらと思うとゾッとします。日本は一刻も早く敵基地攻撃能力を持つべきです。議論している暇はありません。国民の命がかかっているんですから。日本にも反撃手段があると敵が思ったら抑止力になります。

 ミサイル防衛が全く無駄とまでは言いません。少なくともレーダーで広範囲をカバーし敵ミサイルの接近を察知するのは重要です。しかし一番優先しなければならないのは敵基地攻撃能力を一刻も早く保有し敵にミサイル発射の兆候が見えたら躊躇なく叩く事でしょう。菅政権はこのニュースが持つ意味を本当に理解しているのでしょうか?

 皆さんは国防上の重大な危機、どのように思われますか?

摂津晴門とは何者か?

 NHK大河ドラマ麒麟がくる片岡鶴太郎演じる摂津晴門なる人物が登場しましたね。恥ずかしながらこの人物、どのような人物か全く知りませんでした。昔名前くらいは聞いたことある程度。大河ドラマでは織田信長と将軍足利義昭対立の元凶になりそうな感じですが、史実ではどうなのか気になりました。

 摂津晴門は義昭が将軍就任すると幕府の政所執事に任じられます。私の認識では室町幕府政所執事は代々桓武平氏維衡流の伊勢氏が世襲してきたという認識でした。応仁の乱時の伊勢貞親が有名ですよね。では摂津氏は何をしていたかというと幕府引付衆の管轄下にある官途奉行を世襲していました。官途奉行はその名の通り幕府御家人の叙位任官を職掌とした役職です。政所執事と官途奉行のどちらが上かというと、当然政所執事の方がはるかに上です。政所執事は伊勢氏が世襲し、次官の執事代は松田氏と斎藤氏が世襲しました。その次の政所代はアニメ一休さんの新右衛門さんで有名な蜷川氏が独占します。

 摂津氏は中原氏の後裔だそうです。中原氏と言えば源頼朝の幕府創建を助けた中原親能、その弟で大江氏に養子に行った大江広元が有名です。ちなみに中原親能の子孫から豊後大友氏や築後三池氏、肥後鹿子木(かのこぎ)氏などが出ています。摂津氏は親能とは遠い一族でしたが、師員が親能の養子になったことで幕府に仕えることになったのでしょう。

 室町幕府政所執事は伊勢氏がほぼ独占しますが、いくつか例外があり八代将軍義政の時代に一時二階堂忠行が就任しています。ではなぜ摂津氏が政所執事になれたかですが、どうも当時の政所執事伊勢貞孝が将軍義輝時代幕府内の権力争いに敗れ失脚したのが原因のようです。貞孝は近江六角氏と結んだことで将軍義輝、三好長慶双方から憎まれ更迭、京都船岡山で挙兵するも三好配下の松永久秀に追討され近江杉坂まで逃げそこで戦死したそうです。

 摂津晴門は、伊勢氏が居なくなったので政所執事になれたと言えます。しかも彼の息子糸千代丸は義輝が三好一党に殺された永禄の変の時二条御所に詰めていたそうで、一緒に戦死しています。わずか13歳だったそうです。ですから、この時の論功行賞だったのかもしれません。大河ドラマでは大きな権力を握りそうですが、実際はこの時室町幕府は形骸化しておりそこまでの力はなかったと思います。しかも、間もなく将軍義昭と仲違いし逼塞を命じられます。後任には伊勢一族の貞興(貞孝の孫)が任じられていますから、晴門の政所執事の期間は1568年から1571年までのわずか3年でした。

 1572年には記録が無くなっていますから、この時死去したか引退したと言われます。大河ドラマでは最後まで生き残りそうですけどね。分かりやすい悪役として便利使いされそうですが、実際の晴門はそこまで奸悪な人物ではなかったように思えます。

下間(しもつま)氏と七里頼周(しちり よりちか)、本願寺の坊官たち

 本日の記事は非常にマニアックなので日本史や戦国時代に興味のない方はスルーお願いします。

 

 さて何回も話したと思いますが、私の悪い癖は一つの記事を書くとその関連項目も調べたくなる事です。その時は集中しているんですが、熱しやすく冷めやすいためすぐ忘れてしまいます。ですから過去記事を読み返してみると、よくこの時ここまで調べたなと自分で感心するくらいです(苦笑)。

 それはともかく、皆さん戦国時代をテーマとしたゲームをしているとき、本願寺勢力の武将として下間某とか七里頼周とか坊さんの格好をしながら結構能力の高い武将(特に政治力)が出ているのを見た経験があると思います。あの人たちは何者だろうと疑問に思いませんでしたか?一般には僧兵の親玉の類だろうと理解しておられると思います。私も最初はそうでした。

 でも調べてみると、この人たちの出自は立派な武士でした。大和国でいうと興福寺の武力を担当した筒井氏や越智氏のような衆徒にあたります。本願寺のような大寺院の場合は坊官というのがそれに当たります。ただ興福寺の衆徒が主に武力を担当したのに対し坊官は俗世でいうところの政所に当たる統治機関でした。石田三成の親友として有名な大谷吉継も坊官出身だという説があります。

 本願寺においては下間(しもつま)氏が、坊官のトップである別当など要職を独占しました。下間氏はもと下妻氏と言い、面白いエピソードがあります。鎌倉時代初期承久の乱勃発前、摂津源氏源三位頼政の孫にあたる源頼茂という人物がいました。頼茂は正五位下右馬権頭という官位を持ち朝廷の内裏守護の任にありながら鎌倉幕府の信任も厚く在京御家人として朝廷と幕府を仲介する役目も担っていました。

 幕府に反感を抱く後鳥羽上皇にとっては疎まれる存在で、挙兵前無実の罪を着せられ上皇の命を受けた北面の武士たちによって在所のあった昭陽舎を急襲されます。奇襲でしたから応戦の暇もなく自害して果てました。一説では上皇の倒幕計画を察知したため幕府に報告される前に先手を打ったとも言われます。

 頼茂の一族に宗重という人物がいました。この人物も源三位頼政の曾孫にあたります。大叔父頼茂が無実の罪で討たれ宗重もこれに連座し処刑されそうになります。そこにたまたま浄土真宗の開祖親鸞聖人が通りかかりました。親鸞聖人は宗重の冤罪を知っていたかどうか知りませんが、朝廷の役人に処刑の非を説き出家させるという条件で許されます。こうして宗重は親鸞聖人の弟子蓮位坊となりました。

 親鸞聖人は東国伝道に赴き常陸国下妻に一時庵を構えました。同道していた蓮位坊はこれを記念し下妻氏と名乗ったそうです。出家していた者がどうして俗世の姓を名乗るのか疑問ですが、下妻氏は後に下間氏と名を改めます。これが下間氏の始まりだとされます。どこまで真実なのか非常に怪しいですが、蓮如によって本願寺教団が成立すると下間氏もこれに従い坊官として教団の実務を担当することになりました。

 戦国時代一向一揆が起こると、本願寺は指導者として坊官の下間氏を各地に派遣します。朝倉家の記事で出てきた下間頼照、頼俊は戦国の世ですから一向一揆を指導した経験があるのでしょう。並みの武士も顔負けの戦争指導をしたと思われます。ただ一揆衆にとっては本願寺から派遣され頭越しに命令されるのは面白くなかったかもしれません。一向一揆の本場加賀や越前でも最初に蜂起した一揆の指導者たちには煙たがられました。

 本願寺の坊官と言えば他に七里頼周が有名です。頼周は下間氏と違い下級武士青侍の出身でした。本願寺顕如に大抜擢され顕如の命令で加賀一向一揆の指導を命ぜられます。頼周は加州大将として加賀一向一揆を指導したそうですから、エリート層の下間氏とは違い地元の一揆指導者たちとの関係は当初良かったのでしょう。ただ育ちが悪いのか権力を握ると次第に横暴な態度が目立ち門徒の人望を失います。石山本願寺の坊官下間頼廉に加賀門徒から頼周に対する弾劾状が送り付けられるという騒ぎにまで発展し加賀一向一揆は内紛で分裂します。これを見ていた織田信長天正三年(1575年)、越前一向一揆を討つため大軍を派遣しました。

 内部分裂でまとまった抵抗が出来なくなっていた一揆勢は織田軍に簡単に敗北、越前の一揆を指導していた下間頼照は討ち取られます。七里頼周は加賀まで逃げ戻ったそうですが、翌年織田軍に敗北し戦死したとも、味方に裏切られて殺されたとも言われ最期がはっきりしません。

 下間氏にしろ七里頼周にしろ戦国時代の仇花だったのかもしれません。