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水戸藩の幕末維新Ⅲ  水戸天狗党の乱

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 桜田門外の変の後、水戸藩自体にはほとんどお咎めなしと書きましたがその分事件の関係者に対しての幕府の処断は苛烈を極めました。

 まず事件の首謀者関鉄之助は直接襲撃には加わっていなかったものの事件の首魁と目され京に向かって諸国潜伏中捕縛、斬罪されます。享年39歳。同じく岡部忠吉も捕縛斬罪。黒澤忠三郎ら襲撃犯は自訴の後斬首。生き残ったのは潜伏に成功した2名のみ。

 当然ながら烈公斉昭蟄居後の水戸藩は、佐幕恭順派が実権を握っていましたから事件の報告を受け驚愕しました。あくまで犯行は過激化した脱藩浪士攘夷派であり水戸藩はまったく関係ない事、それを証明するために藩内の攘夷派を弾圧する事を幕府に弁明します。これには藩内の守旧派だけでなく中立派も同調しました。水戸藩が生き残るにはそれしかなかったでしょう。弾圧によって多くの攘夷過激派藩士は脱藩し小川、玉造、潮来などの南部に潜伏、近在の富豪から軍資金を挑発し領内の郷士、村役人、神官などを集め軍事訓練を施します。尊王攘夷を唱える彼らは水戸藩内でさながら独立国を形成する勢いでした。

 このような攘夷過激派で指導的立場にあった者に藤田小四郎(1842年~1865年)がいました。名前で分かる通り藤田東湖の四男です。当時23歳。兄健(たける)が水戸学教授の藤田家を家督を継いでおり部屋住みの身分だったことも過激化した原因の一つだったのでしょう。佐幕恭順派は彼らの事を軽蔑して天狗になっていると罵りましたが、小四郎らは逆に自ら天狗党と名乗ります。

 1864年(元治元年)、小四郎らは筑波山に拠ってついに挙兵しました。攘夷派の中でも穏健派の重鎮だった武田耕雲斎は、最初「軽挙妄動である」として彼らの行動を諫めます。小四郎らは逆に耕雲斎を説得し天狗党の首領になってくれるよう懇願しました。想像では穏健派であっても攘夷派は水戸藩内で居場所が無くなっていたのでしょう。ついに耕雲斎も小四郎たちの熱意に負け参加を決意するのです。

 武田耕雲斎の名前は水戸藩だけでなく天下に鳴り響いていました。最初は不平浪士の集まりだった天狗党は諸国の攘夷志士や近在の勤皇の志を持つ庶民をあつめ1000名以上の大勢力に膨れ上がります。こうなると幕府も無視できず近在の諸藩に討伐を命じました。ところが諸藩は藩内に同じ攘夷派を抱えていただけにやる気がなく、嫌々出兵してもちょっと反撃を受けるとすぐ撤退します。一番本気になったのは、幕府から疑いの目を向けられている水戸藩でした。かつての同胞同士の殺し合いは凄惨を極めます。

 水戸藩の主流になったのは佐幕恭順派の家老市川三左衛門ら諸生党でした。諸生党は水戸城を占拠し天狗党の家族を虐待します。幕府も若年寄田沼意尊(おきのり。意次の孫)を総大将とする諸藩の大軍を派遣し筑波山を包囲しました。天狗党は戦っても利あらずとして筑波山を撤退、水戸藩領に舞い戻り水戸城を巡って諸生党と激しく戦います。天狗党、諸生党は水戸の外港那珂湊で激しく激突、天狗党はついに敗れました。

 1864年(元治元年)10月下旬、天狗党は北方の久慈郡大子に集結、善後策を協議します。色々な意見が噴出しますが、京都に登って朝廷に天狗党の心情を訴えるべしという意見が大勢になりました。ここが運命の分かれ目でした。同じような立場に置かれた長州藩は、高杉晋作らがあくまで藩内の実権を取り戻そうと功山寺決起を実行し革命に成功しました。地理的要因、人材の違いなどはありますが、天狗党のこの決定はやはり判断を誤ったとも言えます。

 事を起こすにはそれを裏打ちする経済力が必要です。その意味ではあくまで藩内で実権を握る方向に進むべきでした。天狗党の面々はあまりにも純粋だったのでしょう。1000名を超える兵力でも、京都に向かうには途中幕府の追討軍と戦わざるを得ないし軍費もないので挑発か略奪しか手段がありません。そうなると庶民の支持を受けることはできなくなります。匪賊と変わらなくなるわけですから。

 実際、天狗党常陸を発し、下野、上野、信濃、美濃、近江と進み越前敦賀で力尽きました。幕府に降伏した天狗党加賀藩に預けられます。加賀藩は最初丁重に彼らを扱ったそうですが、幕府は関東で天狗党の起こした戦乱の惨禍を許さず、彼らを敦賀の鰊蔵(にしんぐら)に監禁、手枷足枷をはめ下帯以外はすべてはぎ取るという人を人とも思わない残酷な処遇をしました。それだけ幕府の憎しみが強かったのでしょう。

 1865年(慶応元年)2月、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352名斬罪、その他の者は遠島、追放に処されます。耕雲斎、小四郎ら幹部4名の首は水戸に送られ晒されました。処分はこれだけでは終わらず武田耕雲斎の家族は三歳の幼児も含めてすべてが殺害されるという凄惨な結末に終わります。

 明治大正期になって殉難者と認定された天狗党の数1492名。水戸脱藩浪士が主力ですが、他藩の攘夷浪士や勤皇の志を持つ百姓、町民も半数近くを占めていたそうです。一連の天狗党事件によって水戸藩は維新の主役から脱落しました。以後、水戸藩薩長を中心とする維新の動きに取り残され、逆に幕府に対する複雑な感情から佐幕派としての積極的動きもありません。太平の眠りを貪る他藩と同様、激動の時代に翻弄されるだけの存在に落ちぶれました。


 水戸藩は維新の時代をどのように過ごすのでしょうか?次回最終回、水戸藩の終焉に御期待ください。