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カルディアのエウメネス

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 世界史では無名の人物ながらその生涯に興味をそそられる人物がいます。このエウメネスもその一人。最近では岩明均の漫画「ヒストリエ」の主人公として知ってる人は知っていますね。ヒストリエは作者が遅筆なのでおそらく完結するためには50巻位の超大作になりそうですが単行本発刊ペースが2年に一度。これではとても完結しそうもありません(現在8巻)。

 私がエウメネスと云う人物を初めて知ったのは『古代ギリシャ人の戦争』(市川定春著 新紀元社)でしたが、最初に受けた印象は日本で云えば石田三成、有能で王家に忠誠心はあったかもしれないが野心が勝ち過ぎそれが身を滅ぼす原因になった、というものでした。そのあと『プルターク英雄伝』(河野与一訳 岩波文庫)を読んだあたりから、やはり彼も一人の英雄であったと再評価するようになりました。

 それではエウメネスの生涯、プルターク英雄伝(プルタルコス英雄伝)をベースとして見ていく事にしましょう。


 エウメネスはカルディアの出身だと云われます。ただし新バビロニアを建設したメソポタミアのカルディアではなく欧州大陸と小アジアを挟むヘレポントス海峡に延びるゲリボル半島北岸にあったギリシャ都市国家カルディアのことです。

 エウメネスがどのようにして外国であるマケドニアフィリッポス2世アレクサンドロス大王の父)に仕えることになったかは諸説ありますが、英雄伝の作者プルタルコスエウメネスの父がカルディアの有力市民でフィリッポスと親しかった事からマケドニアに来たと推理しています。

 エウメネスは、20歳でフィリッポス2世に仕えることになりました。想像たくましくすればフィリッポスとエウメネスの父は少年時代テーバイの人質として暮らしていた時知り合い親友になったのではないかと私は考えています。その後祖国に帰ったエウメネスの父は都市の有力者になるも政変に遭いマケドニアに亡命したのではないかと思うのです。

 エウメネスは最初文官としてフィリッポスに仕え有能であったことから側近に取り立てられました。フィリッポスが暗殺され息子のアレクサンドロス3世(大王)が継いだ後も重用され書記官長に就任します。大王が東方遠征に赴くとこれに同行し、将軍ベルディッカス死後その後任に任じられ騎兵隊長となりました。ただ叩き上げの軍人たちから見ると軍の実績がないエウメネスの昇進はあまり快く思われていなかったそうです。このあたり石田三成武断派の対立と似ていますね。

 アレクサンドロス大王が生きている間は、大王の庇護のもとエウメネスが慢心の振る舞いをしても対立は表面化しませんでした。ところがBC323年6月アレクサンドロス大王が帝国の首都と定めたバビロンで急死するとエウメネスの立場は微妙になりました。

 大王の死後、帝国は有力な将軍たちによって分割されます。エウメネス小アジアカッパドキア、パフラゴニア(現在のアナトリア半島中部から北東部にかけての黒海沿岸)を貰いました。しかしこの地は、マケドニアの領土ではなく異民族の土地でした。このあたりエウメネスが外国人であったための差別だと思います。

 エウメネスは、領土を獲得するため隣国フリギア、リュキア(アナトリア半島中部から南西部にかけて)を領するアンティゴノスとヘレポントス(アナトリア半島北西部)を領するレオンナトスに援軍を頼みます。ところがエウメネスとは親友として付き合いながらも武断派の代表でエウメネスの台頭を快く思っていなかったアンティゴノスはこれを拒否。レオンナトスの方は、援軍には前向きでしたが間もなく起こったギリシャの反マケドニア闘争(ラミア戦争)に介入し余力が無くなってしまいます。

 困り果てたエウメネスは、幼児であった大王の息子アレクサンドロス4世を擁するバビロンの摂政ペルディッカスに泣きつきました。ペルディッカスの方も、エウメネスを自分の陣営に加えるチャンスと見てこれを支援、援軍を得たエウメネスは担当とされた地域を平定しようやく自分の領土を得ます。

 当時、帝国は摂政ペルディッカスとマケドニア本国を守るアンティパトロスの対立が先鋭化していました。対立は間もなくディアドコイ(後継者)戦争へと発展します。アンティパトロスは自派の将軍クラテロス、ネオプトレモスを派遣してエウメネスを討たせました。

 BC321年両軍は小アジア北西部ヘレポントスで激突します。両者の兵力はエウメネス軍が歩兵2万、騎兵5千。連合軍は歩兵2万、騎兵2千でほぼ互角でした。双方とも中央に重装歩兵ぺゼタイロイがマケドニアファランクス(重装密集歩兵陣)を組み両翼を騎兵が固めると云う陣形を布きます。エウメネスも有能とはいえ文官あがり、クラテロス、ネオプトレモスは二線級の将軍でありアレクサンドロス時代のハンマーと金床戦術のような高度な用兵ができるはずもなく単純な力と力のぶつかり合いになりました。

 これはディアドコイ戦争全般について言える傾向で、戦術的にはこの時代見るべきものはありません。むしろ退化して行ったともいえ、これがのちに新興ローマのコホルス戦術に完敗した所以です。

 ヘレポントスの戦いは、厳しい言い方をすれば将軍としてはよりましなエウメネスの勝利に終わりました。勝因は両翼の騎兵の数で勝ったエウメネス軍が敵軍を包囲したことによります。ただ勝ったエウメネスマケドニア人の将軍2名を殺した事は、かえって全マケドニア人の反発を買いました。さらに悪い事に同時期、後見人の摂政ペルディッカスがエジプトのプトレマイオス討伐の遠征中部下に暗殺されるという事件が起こります。

 エウメネスは全マケドニア人の反感を買っていたため欠席裁判で死刑を宣告され孤立しました。討伐軍の大将には武断派の急先鋒アンティゴノスと当初から敵対していたマケドニア太守アンティパトロスが選ばれます。将軍としてはアンティゴノスの方が有能で、エウメネスは敗北しカッパドキアのノラで包囲されました。

 絶体絶命のエウメネスでしたが、BC319年ペルディッカスに代わって帝国摂政の地位に就いていたマケドニア太守アンティパトロスが病没します。その後継者争いでアンティパトロスの息子カッサンドロスと有力な将軍ポリュぺルコンが対立、カッサンドロスはアンティゴノスと結びました。これを受けポリュぺルコンがエウメネスに接近、混乱に乗じたエウメネスはまんまと包囲網から脱出に成功します。ちなみにこの時期、カッサンドロスは反対派に利用される事を恐れアレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世とその母ロクサンヌを殺害しており大王の血統はここに絶えます。

 メソポタミア地方に逃れたエウメネスは大王の残した精鋭銀盾隊などの有力な軍を掌握、BC317年にはこれらを率い現イラン領パラエタケネでアンティゴノスと再び激突しました。この時エウメネスは3万5千の歩兵と6千の騎兵、戦象125頭という有力な兵力でしたが2万8千の歩兵、1万6百の騎兵、戦象85頭のアンティゴノス軍を破る事が出来ず痛み分けに終わります。この辺りがエウメネスの将軍としての限界でしょう。しかもマケドニア軍は外国人のエウメネスに完全に服したわけではありませんでした。ただ利によって従っているにすぎなかったのです。


 BC316年冬、そのまま越冬し冬営していた両軍はパラエタケネの少し北にあるガビエネでぶつかりました。この時はエウメネス軍が奮戦し5千の損害を敵に与えます。ところがアンティゴノスはエウメネス軍の輜重隊を襲いこれを撃破しました。有利に戦いを進めていたエウメネスは一転窮地に陥ります。利によって従っていた自軍の兵士の士気が崩壊しかねないからです。大王の親衛隊であった銀盾隊はエウメネスに断りもなく独断でアンティゴノスと秘密交渉を始めます。アンティゴノスはエウメネスをとらえて引き渡せば他の者の命と財産を補償すると約束しました。こうしてエウメネスは味方であったはずの銀盾隊に捕えられ敵軍に引き渡されます。

 味方に裏切られたエウメネスの哀れさはどうでしょう。ただかつて親友であったアンティゴノスはエウメネスを処刑するにしのびず食料を与えずに餓死させるよう命じました。これも酷い話ではあります。親友なら一思いに斬る事が慈悲だと私は思うんですが…。しかし、アンティゴノスが軍に移動命令を出すとエウメネスは彼を憎んでいたマケドニア兵士によって喉を切られ殺されました。享年45歳。一説ではアンティゴノスが暗殺を命じたとも言われますが、その後の行動を見ると本当に知らなかったのかもしれません。

 エウメネスの死を悼んだアンティゴノスは盛大な葬儀を営み遺骨を銀の壺にいれエウメネスの妻子の元へ送り届けさせました。暗殺の実行犯はアンティゴノスの怒りを買い惨たらしい方法で処刑されます。エウメネスを裏切った銀盾隊は僻地に左遷され生涯をそこで過ごしました。

 ディアドコイ戦争は、結局エジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコスマケドニアのアンティゴノス2世(アンテイゴノスの孫)が生き残りました。エウメネスの最期は悲劇的でしたが、外国人である彼が一時は一方の雄として戦争を戦い抜いた事は評価されて良いと思います。ただ惜しむらくは有能ではあっても人徳がなかったため部下に裏切られると云う結末になったのでしょう。