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異端の参謀八原博通と反斜面陣地

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 最近、歴史群像10月号を読んで嘉数(かかず)の戦いの記事に大変深い感銘を受けました。嘉数の戦いといっても御存じない方がほとんどだと思うので簡単に説明すると大東亜戦争沖縄戦の中の戦闘の一つで、シュガーローフの戦い、西原の戦いとともに最激戦の一つ。武器も兵力も劣る日本軍がアメリカの大軍を相手に善戦し16日にもわたって敵を釘付けにし最終的には撃退した戦闘です。ただし背後の牧港に米軍が上陸したため嘉数高地防衛が無意味になり日本軍は撤退しました。詳しくは歴史群像10月号の当該記事をご覧ください。

 寡兵の日本軍がなぜアメリカの圧倒的大軍を2週間以上も防げたかですが、これは日本の第32軍が採用したある戦法によってでした。その名を「反斜面陣地」と呼びます。通常、陣地は山の稜線などを中心に敵に向かった斜面を防衛正面としあらゆる火砲、機関銃陣地、塹壕を築きます。稜線上には観測拠点や、兵力に余裕のある場合レーダーや高射砲陣地を設けます。なぜなら、敵の進行方向に最大限の火力を集中すべきだからです。

 しかし、兵力に圧倒的な差がある場合敵の膨大な火力によって自軍陣地の火砲が沈黙し簡単に突破を許してしまいます。といって「どうせ負けるから」と撤退してしまっては意味がありません。なぜなら陣地を設けるという事は、そこがチョークポイント(要衝)だからです。ではどうしたらよいか?古来戦術家はこの難問に苦悩しました。そして、回答の一つとして考案されたのが反斜面陣地です。

 反斜面陣地とは、あえて敵に向かった斜面には兵力を配置せず、稜線上に警戒部隊(着弾観測員を兼ねる)を置き、主力部隊はその後方の斜面上に布陣します。敵からみて、反対側の斜面に主力部隊が位置するためこれを反斜面陣地と呼びます。

 敵が陣地のある山の斜面に取りつくまでは、稜線上の観測員による誘導で後方主陣地の火砲(榴弾砲臼砲が望ましい)の曲射砲撃で叩きます。敵が斜面に取りついたら死角になって攻撃できませんが、山の稜線上に達すれば後方から砲撃(この場合は直射砲撃)してこれを叩きます。もし敵が警戒部隊のいる稜線を避け谷筋伝いに登ってくれば、主力部隊と警戒部隊で挟撃するのです。敵は、山の稜線が視界を遮り砲弾がどこから飛んでくるのか分からないため苦戦は必至です。

 とても素晴らしい戦法のようですが、ちょっと考えると分かるとおり陣地の位置、射角、部隊同士の連絡など緻密な事前準備を行わなければ各個撃破されてしまいます。その意味では諸刃の剣ともいうべきリスキーな作戦でもあるのです。ということで反斜面陣地はよほど切羽詰まった状況でなければ採用されません。

 沖縄防衛戦において反斜面陣地を採用したのは、第32軍高級参謀八原博通大佐でした。どちらかというと寡黙部下にすべてを任せ責任だけを負うと云った薩摩型将帥であった第32軍司令官の牛島満中将、壮士型の長勇参謀長(中将)と違い、実際の作戦を立案する八原大佐は、アメリカ駐在の経験もある合理的精神の持ち主。緻密な作戦を得意とする怜悧な参謀でした。硫黄島の栗林中将といい八原大佐といいアメリカ駐在経験のある合理的精神の持ち主が一番米軍を苦しめたかと思うと感慨深いものがありますね。

 八原大佐は、自分の主張が正しいと信じれば絶対に自説を曲げないため空気を読む陸軍内では浮いた存在でした。しかし、このような人物だからこそ反斜面陣地を採用したのだと思います。結局米軍は沖縄戦を通じて死者行方不明者12500人、戦傷者72000名という最大の損害を出します。それよりも日本軍の予想以上の抵抗に戦場ノイローゼになって戦列を離れた者が数万人に上ったとも言われます。

 ただ、大本営は第32軍の一見消極的な戦法(実はこれが一番合理的で有効な戦法だった)に不満を抱き、総攻撃命令を下します。これには牛島司令官、長参謀長始め司令部の参謀すべてが(大本営の意向に従うとして)賛成したそうですが、八原大佐は「無意味である。戦力が枯渇し抵抗できる時間と兵を失うだけだ」としてただ一人猛反対したそうです。しかし多勢に無勢、八原大佐は押し切られ大本営の命令通り総攻撃を行った第32軍は予備兵力のすべてを使い果たし沖縄は陥落を早めました。

 絶望的な戦場でも日本軍はかくも善戦したのだと考えると、誇らしいです。決して軍は沖縄を見捨てたのではなく精一杯国土を守るために戦ったのです。反日左翼によって歪められた沖縄戦の真実を知ることこそ沖縄で散って行った英霊の鎮魂になるのだと私は思います。皆様はどんな感想を抱かれましたか?