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三国志外伝Ⅱ  司馬一族の専横と三国の滅亡

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 234年五丈原の戦い以後の三国の歴史を司馬一族を中心に描きます。諸葛亮の死で蜀軍撃退に成功した司馬懿(179年~251年)は、この時点ですでに魏の最高実力者になっていました。なにしろ20万という魏の主力軍を握っていたのは大きかったと思います。
 
 235年、遼東の公孫淵が反乱をおこすと魏の明帝は司馬懿にその鎮圧を命じます。その際明帝がどれだけ兵力が必要か尋ねると精鋭4万で十分と答えました。敵は15万と号するもしょせん烏合の衆でありまともな戦力にはならないという判断でした。
 
 出発に先立って明帝の質問に応えた司馬懿は「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と言ったそうです。実際公孫淵は下策を採用し、魏軍に完敗して斬られました。
 
 
 234年、明帝曹叡が34歳の若さで病死すると司馬懿は魏の宗族曹爽(曹真の子)と共に後事を託されます。明帝の後を継いだ養子の曹芳はただの傀儡にすぎず、魏の実権を巡って司馬懿と曹爽の熾烈な権力闘争が始まりました。
 
 最初は何と言っても魏帝室の一族である曹爽が優勢で、司馬懿は地位だけは高いが実権がない太傅に祭り上げられます。曹爽は大将軍・侍中(事実上の宰相)という軍事と内政の最高権力を手に入れ、腹心たちを枢要な地位に据えました。
 
 
 司馬懿の凄身は、情勢が不利な時はじっと耐えることができる事でした。曹爽が致命的な失敗をする時を待っていたのです。244年蜀遠征の失敗により曹爽の名声に陰りが生じます。その後の呉遠征も失敗しました。
 
 その間司馬懿は病気と称して自邸に引きこもるのみでした。不気味に思った曹爽は病気見舞いと称して近臣の李勝を偵察に送り込みます。司馬懿は息子たちと示し合わせて今にも死にそうな病人を演じ李勝をすっかり騙しました。彼の報告を聞いた曹爽は安心して司馬懿への警戒を緩めます。
 
 
 249年曹爽一行が皇帝曹芳による明帝の墓参りに同行して首都洛陽を離れると、この時を待っていた司馬懿は秘かに連絡を取っていた子飼いの部下たちを集め挙兵します。宮中に乱入した司馬懿軍は郭太后(明帝の皇后)を脅して曹爽兄弟の官職を剥奪、一気に都を制圧しました。
 
 帰るところを失った曹爽一派は結局降伏し一族郎党皆殺しに遭います。こうして魏の実権を掌握した司馬懿は、以後独裁者として君臨しました。
 
 
 さすがにこの暴挙は魏の諸官の反発を生じさせ251年には司馬一族排斥のクーデターが起こりました。しかしこれはすぐさま鎮圧され、謀反に加担したという理由で魏の皇族たちを鄴に軟禁します。これ以後の魏王朝は名ばかりの皇帝が続き、諡号(明帝とか文帝などと云う諡)さえないという酷さでした。このあたり司馬懿が後世大悪人と呼ばれる所以です。
 
 
 251年、司馬懿は魏の全権を握ったまま死去しました。後を長男の司馬師(208年~255年)が継ぎます。父の官職である撫軍大将軍から大将軍(軍の最高司令官)の地位を得ました。沈着冷静で父もその才能を買っていましたが、252年呉の孫権死去に乗じて攻めた東興の戦いには敗北します。
 
 ところが自分の過ちを素直に認めたため帰って評判が上がりました。254年には魏の皇帝曹芳が傀儡に飽き足らず自分を取り除く陰謀を企んだという理由で廃し、明帝の甥にあたる曹髦を傀儡皇帝の座に据えます。
 
 あまりにも酷い司馬一族の専横に我慢の限界を超えた魏の重臣毌丘倹(かんきゅうけん)は、255年任地の楊州寿春で挙兵しました。しかし司馬師は自ら親政してこれを鎮圧、逆に権力基盤を強化します。
 
 
 ただこの戦争で、持病の眼病を悪化させ片方の目を失明してしまいました。そのため激痛が続き凱旋の途中255年許昌で死去します。弟の司馬昭が遺言により後を継ぎました。
 
 
 司馬昭(211年~265年)は、父や兄ほどの才能は無かったと言われますがすでに彼が継承した時は司馬氏の権力は盤石でした。すでに魏の皇室は有名無実な存在となり、大将軍・禄尚書事となった彼に対抗できる者は皆無となっていたのです。
 
 
 司馬昭が次に起こす行動は傀儡皇帝を廃して自分が皇帝になる事でした。腹心の賈充と共に準備を着々と進めます。まず潜在的に敵となり得る諸葛誕を挑発して挙兵に追い込みました。諸葛誕は魏の重臣で毌丘倹亡きあと司馬昭に対抗しうる地位と実力を持っていたからです。さらに曹爽とも姻戚関係があったのでいずれ除かれる運命だったと言えます。
 
 
 諸葛誕の反乱は待ちかまえていた司馬昭によって鎮圧されます。260年には皇帝曹髦さえ謀反の嫌疑をかけて廃し殺しました。
 
 263年すでに衰亡していた蜀を滅ぼすと、264年にはついに晋王の称号を得ます。これは皇帝になるための前準備でした。ところが265年8月中風のため56歳で死去。一族の野望は嫡男司馬炎(晋の武帝。265年~290年)に引き継がれました。
 
 265年12月、司馬炎は魏の元帝(曹奐)を脅迫して禅譲をせまりついに念願の晋王朝を開きます。ただ父や伯父、祖父のように非情に徹する事は出来なかったらしく曹奐の子孫たちは長らく陳留王の地位を保ちました。曹奐の直系が絶えると曹操の玄孫である曹勱が陳留王の位を継承し曹一族は南朝宋の479年まで続きます。
 
 
 さすがに曹一族を皆殺しにしていれば、おそらく支那史上でも指折りの大悪人として語り継がれたでしょうから、世間の悪評を恐れたとも云えます。
 
 
 279年数々の内紛で衰えた呉を滅ぼし、晋はついに天下を統一しました。