231年、諸葛亮は再び祁山に進出しました。この時木牛・流馬と呼ばれる食糧運搬車を使って糧食を運んだと云われます。どのような物だったかは現在分かっていませんが、一種の機動力ある一輪車で山岳地帯での輸送に便利だったと伝えられています。
司馬懿は張郃・郭淮らを率い20万の大軍をもって迎え討ちました。しかし10万と半分の兵力の蜀軍に一敗地に塗れ張郃が戦死するなど大きな損害を出します。これに懲りた司馬懿は諸葛亮と直接戦う愚をさけ、徹底的に守りに徹することで敵の疲弊を待つ持久策に転じました。
さすがにこれは蜀軍にとっては堪えました。結局食料不足に陥った蜀軍は撤退を余儀なくされます。このままではじり貧に陥ってしまうと危惧した諸葛亮は、司馬懿に決戦を強要すべく234年春五丈原に進出しました。これは今までの遠征で一番東へ進出した地点でした。破られれば長安は指呼の間です。
ある日、蜀軍から司馬懿に贈り物が届られます。箱の中には女物の着物が入っていました。あくまで戦わないのは男ではなく女なのだろうという侮辱です。しかし、司馬懿は怒らず逆に蜀の使者に諸葛亮の日常を尋ねました。
「あの様子では諸葛亮の命は長くないな…」
それは蜀の人材不足を表していました。諸葛亮以外に人がいないためにすべて彼が処理しなければいけなかったのです。その疲労は重なり次第に病魔がその体を蝕んでいました。自分が長くない事は諸葛亮自身が一番分かっていたのです。
追撃するのはこの時とばかり、司馬懿は諸将の反対を押し切って出陣します。ところが撤退中と思っていた蜀軍の後陣がにわかに向きを変え逆襲の構えを見せました。その先頭には四輪車に乗り白羽扇を持った諸葛亮の姿が。諸葛亮の策にはめられたと慌てた司馬懿は自陣に逃げ帰ります。
「死者が相手ではさしもの私でも勝てんよ」
諸葛亮の遺骸は、遺言によって漢中定軍山に葬られます。普段着を付け、金銀財宝を墓に入れる事を許さなかったそうです。これは彼の清廉潔白な性格なのでしょう。遺産も小さな村の村長程度と少ないものでした。
諸葛亮の死は一つの時代の終わりでした。以後蜀は彼の後継者姜維の奮闘で263年まで保ちます。しかし最後は司馬懿の次子司馬昭によって滅ぼされました。魏もまた強大化した司馬一族の手によって265年乗っ取られます。呉はそれよりは長く続きましたが内部抗争を繰り返して国力を衰えさせ280年、晋の武帝司馬炎(昭の子)によって滅亡させられました。
諸葛亮以後の歴史はいずれ書く機会もあるでしょう。ですが彼の死で終わるのが日本人の美意識に合うと考えます。ということで、ここで私も筆を置きたいと思います。