226年、魏の文帝曹丕が没します。臨終の前、曹丕は最も信頼する一族の曹真・曹休、そして陳羣と司馬懿を呼んで後事を託しました。享年39歳。帝位は若年の息子曹叡が継ぎます。すなわち魏の明帝です。曹丕の早すぎる死が三国時代を長引かせたともいえます。曹丕は支那大陸を統一するだけの能力がありました。魏王朝にとって不幸だったとも言えます。
ところが、都洛陽にある噂が流れます。司馬懿が謀反を企んでいるというのです。若い明帝は半信半疑でしたが疑心暗鬼の側近たちが讒言したためともかく安邑に行幸し司馬懿が出迎えに来たところを逮捕するという計画が練られました。何も知らない司馬懿はその場で逮捕されますが、もちろん無実なので堂々とそれを主張します。
結局司馬懿は死罪だけは免れましたが、軍権を持っているのが良くないとされ南陽宛城に左遷されました。これはもちろん諸葛亮の策でした。北伐最大のライバルになる司馬懿を今のうちに除いておこうという考えです。大都督の地位は曹一族の曹真に引き継がれます。
また、諸葛亮は蜀を裏切って魏に亡命した孟達にも書を送りました。実は孟達は曹丕にとても寵愛され散騎常侍・建武将軍に任ぜられ、平陽亭候にも封じられたほどでした。上庸郡に加えて二郡を加増されわが世の春を楽しんでいた孟達ですがしょせん他所者の降将、魏が明帝に代替わりすると立場が微妙になってきます。その不安を上手く衝いたのです。諸葛亮北伐の際には内応する約束までできていました。
こうした万全の準備を施した諸葛亮は、十万の兵を率いて北伐に向かうべく最前線漢中に至ります。出陣に際して皇帝劉禅に送った『出師の表』は先帝劉備に対する恩義を述べ、劉禅を我が子のように諭し、自らの決意を表明した忠臣の鑑のような文章として古来有名です。
228年、ついに蜀軍は国境を越えます。この時上庸の孟達も魏に背きました。いち早く孟達謀反の報告を聞いた宛城の司馬懿は、都に報告して返事を待っていては間に合わないと越権行為ではあったものの宛城の魏軍を率いて上庸に急行しました。敵がここまで早くやってくるとは思ってもいない孟達は不意を衝かれ敗北します。司馬懿は孟達を斬りそのまま長安に向かいました。この功により司馬懿の越権行為は不問にされます。なによりも曹真は自分一人では防衛戦に不安だったので司馬懿の到着を歓迎しました。
北伐に際して、蜀の武将魏延は長安への最短距離を急行する策を進言します。しかし諸葛亮は危険すぎるという事でそれを却下しました。 まず南安・天水・安定の三郡(共に甘粛省東部)を平定し、そこを策源地にして長安を攻めるという正攻法を採ります。
この手堅い作戦は功を奏し、蜀軍は魏の西方領土分断に成功しました。ただ諸葛亮が天水郡太守馬遵を攻めた時は一時苦戦します。というのも天水の麒麟児と称される姜維(きょうい)という若者がそれを補佐していたからです。
諸葛亮は姜維の天分に感心し、策を持って彼を捕えました。諸葛亮から親しく説かれた姜維はついに蜀に降伏します。実は諸葛亮は自分の寿命がそれほど長くない事を知っており、後継者を探していたのでした。姜維は諸葛亮の薫陶を受け知勇兼備の名将に育って行きます。
諸葛亮にその才を愛された人物はもう一人いました。白眉馬良の弟馬謖(ばしょく)です。彼もまた後の蜀を背負う人材として期待された一人でしたが、成功するかに見えた北伐は彼の致命的な失敗によって頓挫するのです。
次回、街亭の戦いと『泣いて馬謖を斬る』の故事のもとになった話を描きます。