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中独合作と浸透戦術

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 1912年中華民国成立後、蒋介石の国民政府は1920年終わりころから急速にドイツに接近し大量のドイツ製兵器を輸入しドイツの軍事顧問団を受け入れていた事は戦史に詳しい方は御存じでしょう。歴史上これを中独合作と呼びます。
 
 1933年、ドイツの元参謀総長フォン・ゼークトが軍事顧問団長に就任すると、蒋介石はゼークトに国民政府軍(以後国府軍と略)の訓練を一任しドイツ式の軍隊建設を目指しました。
 
 もともと蒋介石の国民党軍といえど軍閥の一つで、とても近代軍とは言えませんでした。しかしゼークトはこれを兵站組織をもつ近代軍に改編します。軍閥の兵は正面装備はともかくまともな兵站組織をもたないため正規軍とぶつかるとひとたまりもありませんでしたから。
 
 その証拠に満州事変でも張学良の軍隊は日本軍のわずか1個師団強の兵力に押しまくられ完敗しました。
 
 ゼークトは日本を第一の主敵とし他国とは親善関係を結ぶ事を進言します。蒋介石のドイツ盲信は当時でも有名でしたから、日中の激突はすでに想定されていたのかもしれません。
 
 1937年に勃発した支那事変は、戦後中共と結託した左翼歴史家の手で日本の侵略と決めつけられていますが、経過を見ると公平に見て蒋介石側に100%とは言えなくてもかなりの責任があったと見て間違いないでしょう。
 
 盧溝橋事件が偶発的、あるいは意図的に始まったにしてもこれを支那大陸全土に拡大したのは間違いなく蒋介石による第2次上海事変(1937年8月13日~)からでした。
 
 ゼークトは、わずか帝国海軍上海特別陸戦隊1個(2個大隊基幹、2000名)が守る上海奇襲攻撃を進言します。もし蒋介石に戦争する気持ちがなければこれを拒否する事もできたはず。それをしなかった以上彼も日本との戦争の意思があったと思います。
 
 ゼークトはそのために入念な準備を行います。上海の周辺にトーチカ陣地を中心とする複郭陣地帯(ゼークトライン)を構築、ここを起点にして出撃し陸戦隊を包囲殲滅、日本の当時の動員力から大陸に派遣できる兵力を数十万と試算、一方300万動員できる国府軍を使って陣地帯に日本軍を誘引、消耗を誘うという作戦案でした。
 
 日本は欧州の激しい市民戦争を経験していませんから、数十万単位の戦死者を出せば世論が騒ぎ出し有利な条件で講和できると踏んだのです。第1次大戦で数十万単位の戦死者をだしても市民に戦争反対の世論が起こらずむしろ抗戦意欲が増したドイツやフランスのような国民性と日本人は違うという鋭い分析でした。
 
 たしかに今の日本の国民性を見る限り、国家防衛の義務を市民が負うという意識が先天的に希薄だと感じます。第2次大戦後独伊は連合軍が押し付けた憲法をさっさと反故にし再軍備をはたしまともな国になったのに、日本は後生大事に占領憲法を護持し独立国家としてあるまじき歪な安全保障意識しかなく周辺諸国に舐められているではありませんか!
 
 明治の一時期だけが日本史上特異な時期で、基本的に日本国民は戦争は他人がするもの、自分はその利得を得るだけという町人根性が骨の髄まで染みついていると断ぜざるを得ません。
 
 
 第1次上海事変の停戦協定で「ここに陣地を設けてはならない」と定められた中立地帯に国府軍はどんどんトーチカを設置します。国際条約も何もあったものではないばかりか、あきらかに侵略の意図を持っていたのは蒋介石国府軍でした。
 
 一説では上海周辺に建設された国府軍のトーチカは2万基にも及んでいたそうです。支那事変における日本軍の泥縄式戦争指導が糾弾されますが、その前に蒋介石の侵略の意図を冷静に分析しなければいけません。
 
 しかし戦闘が始まると日本の海軍上海特別陸戦隊は頑強に抵抗します。日本は国府軍の攻勢に驚き不拡大方針を撤廃、8月15日第3師団と第11師団に動員命令を下し、上海派遣軍を編成します。
 
 海軍航空隊も渡洋爆撃を開始し、上海上空の制空権を確保し反撃に備えました。
 
 一方国府軍は最初に攻撃を開始した第87師、88師に15、36、118の3個師団を加え7万の兵力に増強されます。日本軍は佐世保・呉・横須賀の陸戦隊を急派し6300名ほどが当座の兵力でした。
 
 苦戦を続ける日本軍でしたが、8月23日ようやく陸軍の2個師団が上海に上陸、次第に国府軍を押し返し始めます。
 
 ここまではゼークトの作戦通りでした。あとは強固な複郭陣地帯に日本軍を誘引、多大な出血を強いればよいだけです。
 
 このために国府軍は最精鋭部隊を上海戦線に集結させていました。当時参戦していた日本軍将兵は「今度の支那兵はなかなか歯ごたえがあるな」と感じていたそうですが、実際国府軍最強部隊を相手にしていたのです。
 
 時間が経てば経つほど日本軍は敵の術中にはまり犠牲が大きくなるばかりでした。しかし上海派遣軍司令官松井石根大将はある戦術を採用し敵陣地突破を図ります。
 
 勘の良い方なら分かると思いますが、その戦法こそ浸透戦術と呼ばれるものでした。
 
 それまでの陸戦戦術は、部隊単位で行動し突撃移動を行っていました。しかし第1次大戦で機関銃が猛威をふるい始めると集団での行動はいたずらに犠牲を増すばかりだと悟り、部隊を少数に分割し広く散会して攻撃をする戦術が採られます。
 
 5~6名の分隊単位に分割し、各分隊長には作戦目標を大まかに示しそれぞれの判断で臨機応変に攻撃させることにしました。強固な陣地帯といっても人間がする事ですから中には弱点があります。そこを発見し分隊単位で浸透して戦線を突破後方に回る事(多方面同時突破)で大まかな包囲を完成させるのが浸透戦術と呼ばれるものでした。
 
 浸透戦術は下士官の質が一番ものをいいます。日本軍はその点優秀な下士官が多かったそうですから浸透戦術を採用するにも有利だったのでしょう。
 
 一方、ゼークトは浸透戦術などという欧米で主流になりつつあった高級な戦術を日本軍が取れるはずがないと舐めていました。自分達が相手をしている支那人のレベルを見て日本人の能力を低く見積もっていたに違いありません。
 
 しかし、日本軍はやりました。上海から南京にかけて国府軍は75万もの大軍を集結させていたといいます。それを杭州湾に上陸させた増援部隊も含めてわずか7個師団半20万の日本軍が破ったのですからこれは偉業でしょう。
 
 第2次上海事変は浸透戦術によって寡兵が大軍を破った戦例として有名になります。
 
 
 これまで日本の戦争を思想的フィルターを通してしか見ない歪んだ左翼史観がはびこっていましたが、戦史を公平な目で準軍事的に考察する時期が来ているんじゃないでしょうか?日本が再生するためにも…。