鳳山雑記帳はてなブログ

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毛利元春のこと

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載
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 戦国時代に詳しい方におかれましては、毛利元春って吉川元春の事じゃないの?何気取ってるの?馬鹿じゃないの???などとお叱りを受けると思いますが、実は別人です(笑)。というより毛利元就のご先祖様の話です。
 
 今回ご紹介するのは戦国時代中国地方の覇者毛利元就の六代前のご先祖、元春の事です。
 
 もともと毛利氏は、鎌倉幕府初期の重鎮大江広元の子孫で、四男・季光が相模国毛利庄(現神奈川県厚木市あたり)の地頭になり毛利氏を称したのがはじまりです。毛利氏と安芸(広島県西部)との関わりはいつごろか不明ですが少なくとも鎌倉時代末期までには安芸国吉田荘(安芸高田市の一部。旧吉田町)の地頭職を得ていたようです。
 
 最初に吉田荘に下向したのは季光の孫時親の時代で、三浦泰村の一族滅亡(1247年宝治合戦、三浦氏と北条・安達氏の権力争いから起こった合戦。毛利一族も三浦氏と縁戚関係だったため多くの一族が討死した)から生き残った経光の子にあたります。この時親が吉田郡山城を始めて築いたとされています。しかし最近では時親の代官として下向した曾孫の元春が築いたという説もあります。
 
 時親は、河内国加賀田郷などいくつか分散する領地のうち本拠を安芸吉田荘に移した人物で、後から見ると慧眼の士だったと思います。
 
 ところがその曾孫の元春の時代に南北朝の動乱が巻き起こります。実はこの時時親は老齢ながらまだ生きていたそうですが、建武の中興で肝心の吉田荘を建武政権に取り上げられ花山院家の所領とされたことに元春は怒ります。これと似たようなことが赤松円心のケースでもありましたから建武新政権は失政で武士階級の信頼を失っていたようです。
 
 一時期、外祖父の三田入道のところに身を寄せていたそうですが、詳しい場所は分かりません。毛利氏は吉田荘の他に河内加賀田郷、越後佐橋南条など先祖累代の土地はかろうじて確保していたようなので滅びはしませんでした。
 
 足利尊氏建武政権に反抗するといち早く毛利元春も馳せ参じます。全国的に建武新政権に不満を持つ武士は多かったようですから、これが足利幕府誕生の原動力となりました。
 
 もともと建武政権には恨み骨髄に達していましたから、元春は獅子奮迅の活躍を見せ、見事吉田荘を回復します。
 
 しかし、越後佐橋南条にいた祖父貞親と父親衝(親茂)が宮方につくなど骨肉の争いを演じています。一時期父親衝の軍勢に吉田荘に攻め込まれるなど恐ろしい状況もあったそうです。そのほか一族兄弟が武家方宮方に分かれて泥沼の争いをしたそうですから元春には同情します。
 
 ただ曾祖父の時親だけは元春の器量を買っていたそうです。後見役の時親が1341年没すると元春は毛利宗家を継ぎ郡山殿と称されるようになります。
 
 元春は一族骨肉の争いを勝ち抜き、惣領の地位を実力で守り抜くことに成功しました。父の親衝がどうなったかですが、殺されはしなかったようです。息子に宗家から叩き出された(笑)形になった親衝は、日下津城を築き別家を建てます。子孫は坂氏を名乗り毛利氏の有力庶家として生き残ったそうです。
 
 この親衝という人物、反骨精神旺盛の困ったチャンですね。息子の元春もさぞ苦労したことでしょう(苦笑)。
 
 元春は、今川了俊に従って九州に従軍していた時、大内弘世と結んだ親衝に攻め込まれて嫡子広房を殺されていますから実父とはいえ良い感情は抱いていなかったのかもしれません。
 
 毛利宗家は元春の嫡孫、光房が継ぎます。元春は孫の成人までこれを後見したそうですが没年は分かりません。
 
 元春は実質的な安芸毛利家の創始者といえるかもしれません。彼がいなかったら後の大大名毛利氏は存在しなかったはずですから。