鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

こういう歴史資料は大好物です

戦国武将羽柴秀吉が兵数指示した文書発見か?…中国攻め、城を海から攻撃!


 常山城は岡山県玉野市の標高300mの常山山頂にあった山城です。場所から見ると備前に見えるんですがぎりぎり備中なんですね。ググってみると常山城は備中の戦国大名三村氏の姻戚に当たる上野氏が文明年間(1469年~1489年)に築いたそうです。以後、備中上野氏の居城となります。文明年間と言えば応仁の乱(1467年~1477年)の真っただ中。備中三村氏が戦国大名化したのは16世紀前半ですから、それとは関係なく応仁の乱とそれに関連する戦乱に備えての築城だったのでしょう。

 備中三村氏はマイナー戦国武将好きの私としてはいつか詳しく調べて書きたい存在ですが、甲斐源氏小笠原氏の一族で鎌倉時代初期常陸国筑波郡三村郷を領したことから三村氏を称しました。承久の乱後の恩賞で信濃国千曲郡洗馬荘の新補地頭となり信濃三村氏が成立。信濃三村氏の一族が備中国星田郷の新補地頭を得て備中三村氏が始まります。といっても、実際に三村氏が備中に赴任したのは元寇以降で鎌倉幕府の命令でした。所謂西遷御家人というやつです。

 最初は備中の一国人領主程度の小さな存在でしたが三村家親(?~1566年)の時代に隣国毛利氏と結び当時備中で有力だった守護細川氏の備中守護代庄氏などを抑え備中を制圧します。一時は備前や美作の一部を領するなど最盛期を築きますが、備前宇喜多直家と抗争し美作興善寺滞在中、直家の命を受けた家臣に短筒の火縄銃で暗殺されました。鉄砲による暗殺は非常に珍しかったそうです。

 ところが、後ろ盾のはずの毛利氏は対立していた宇喜多直家と同盟を結び三村氏の立場がなくなりました。家親が非業の最期を遂げた後家督を継いでいた三男元親は当然激怒、反毛利に立ち上がります。毛利氏はこの時8万、三村氏も2万を集めたそうですが、多勢に無勢居城備中松山城を落とされ自害。三村氏はここに滅亡しました。これは1575年の事で毛利氏と三村氏の一連の戦いを備中兵乱と呼ぶそうです。

 この時の常山城主は上野肥前守隆徳でしたが、この城に一族であった三村氏の残党が逃げ込んだため毛利氏の攻撃を受けることになります。毛利氏の大軍の前に城は落城、隆徳も自害しました。その後常山城は毛利氏の属城となります。

 羽柴軍が攻撃したのはこの時の事なのでしょう。信長の命令で中国攻略に向かった秀吉は宇喜多直家を降し備中に攻め入ります。常山城攻めも備中高松城攻撃の一連の戦いの一部だったのでしょう。それにしても寄せ手の人数を細かく記していますね。私は読めないんですが、加藤光泰280人、浅野長政500人、黒田官兵衛100人、仙谷秀久200人など総勢1530人、こういう緻密さが秀吉が天下を取った理由の一つなんでしょうね。


 こういう話は戦国好きの私としては非常に興味深いのですが、一つ疑問があります。備中国太閤検地で17万石、その後の寛永検地でも22万石にすぎません。三村氏が二万人も兵力を集めたというのは眉唾です。一般に軍役は1万石につき250人から300人。備中の正確な石高は不明ですが太閤検地の時は軍役の負担を軽減するために過少申告した可能性が高いですからざっと20万石としましょうか。これだと6000人が限界です。しかも周囲は毛利氏と宇喜多氏に囲まれてすべて敵。寝返る国人も多いでしょうから5000人も集められたら良い方でしょう。毛利氏の8万人というのも眉唾に近い。三村氏の二万人が5千人ですから、4分の1として毛利軍も二万人くらいが実数に近いと推定します。

 昨日の敵は今日の友という言葉がありますが、三村氏を裏切って宇喜多氏と結んだ毛利氏の背信行為は信じがたいですね。中国者の律儀という言葉は何だったのかと思いますよ。自分の利益のためには味方を裏切っても平気だったんでしょうね。それが戦国の習いとも言えます。ただ、そこまでして結んだ宇喜多直家織田家が侵攻するとあっさりと寝返るんですから因果応報ですね。まあ梟雄といわれた宇喜多直家を信じた毛利氏が悪い。

 一応、三村氏を見捨てるとき吉川元春は猛反対したそうですが、小早川隆景安国寺恵瓊らが宇喜多直家との同盟を推進したと言われます。毛利家中のそれぞれの武将の性格が分かって面白いと思います。義に生きて曲がったことが嫌いな元春、利益のためには味方も平気で見捨てる隆景、同じ兄弟なのにここまで性格が違うんですね。そして長男の隆元は非常にネガティブな性格。父親の毛利元就は頭が痛かったことでしょう(笑)。