第1次ポエニ戦争で疲弊したカルタゴ、にもかかわらず国家の再建も二の次で自己の利益追求にのみ汲々とする商人貴族たち。愛国者ハミルカル・バルカスにとって祖国の現状は絶望でしかありませんでした。
両雄並び立たず、きたるローマとの戦争は今のままでは戦わずして決着がついてしまう。浮かれているカルタゴ元老院で一人だけ覚めていた彼の取った道は、新天地ヒスパニアに赴くことでした。
ヒスパニアの地で力を蓄え、ローマとの戦争に備える。彼の構想は、しかしカルタゴの誰も賛同しませんでしたし、おそらく彼もそれを知っていたでしょう。
ハミルカルは、軍人貴族であったバルカ家の一門、子飼いの部隊のみを率いて旅立ちます。それを冷ややかに見守る政敵たちは、疎ましいハミルカルがヒスパニア統一戦争のさなかに現地人に殺されることを望んでいました。ヒスパニア総司令官の地位は厄介払い以外の何物でもなかったでしょう。
当時のヒスパニアに、カルタゴの勢力がどこまで及んでいたかは分かっていません。ガデスなど一部植民都市はありましたが、領土的野心の低いカルタゴの領域はほとんど内陸には及んでなかったとみて良いでしょう。
ハミルカルは、ヒスパニア東南岸に良港を抱えたカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴの意味。後のカルタヘナ)を建設することから始めました。
ここをヒスパニアの首都、策源地として内陸へ進出していこうと思っていました。娘婿で副将であったハストルバルと共に時には力で、時には外交で現地部族を従えていきます。そこから兵を募り、ハミルカルは歩兵5万、騎兵6千、戦象2百の軍隊を作り上げます。それは今までの能力の低い傭兵部隊ではなく、陸軍大国ローマのそれにも匹敵する精強な軍隊でした。
ハミルカルがヒスパニアに渡って9年、バルカ家はこの地に確固たる基盤を作り上げることに成功しました。ハミルカルが現地人との戦いに戦死すると、娘婿のハストルバルが後を継ぎます。彼もまた勢力拡大に努めヒスパニアのカルタゴ勢力はローマにとって無視できない勢力になって来たのです。
ローマはカルタゴに詰問の使節団を送ります。しかしカルタゴ元老院の回答は「これはローマに賠償金を払うための開発である。しかも責任はバルカ家にあり、交渉は直接そちらにあたってくれ」という無責任なものでした。
ローマはハストルバルと直接交渉し、両者の勢力範囲をヒスパニア北東のエブロ川で区切ることに決めます。地図を見てもらうと分かる通りイベリア半島の大半はバルカ家のものと認めたに等しい取り決めでした。
紀元前221年、ハストルバルは暗殺されます。後継者には25歳になっていたハミルカルの長男ハンニバル・バルカスが就きました。
ハンニバルは、名将であったハミルカルの能力を受け継ぎ、軍事的才能ではむしろ遥かにしのいでいました。彼がいつのころからローマに対する復讐を考えていたのか不明ですが、その復讐戦に入るきっかけは、むしろローマ側の責任でした。
エブロ川の南岸にサグントゥムという都市があります。ローマとの取り決めではカルタゴ側の勢力範囲でしたが、サグントゥムはカルタゴ支配を嫌いローマと同盟を結んでしまいます。ローマは使節を派遣し、サグントゥムをローマ側に引き渡すよう強硬に要求しました。
明らかな挑発行為でした。エブロ協定違反であるばかりでなく、無視できなくなったカルタゴ勢力を戦争に引き込み滅ぼそうという意図があったのはまちがいありません。
ハンニバルはローマの要求を一蹴、みずから軍を率い紀元前218年反抗したサグントゥムを攻略します。当時カルタゴ本国にいたローマ外交使節団は、これを暴挙としてカルタゴ元老院を非難します。しかし、いままでバルカ家に非協力的だったカルタゴ本国は、このときはじめてローマの要求を拒否するのです。
本国政府の豹変の理由は不明です。しかしハンニバルの快進撃を見てどうやらこの戦争は勝てそうだという皮算用をしたのは間違いないでしょう。しかしこの腰の定まらない態度は最終的にハンニバルの足を引っ張ることになります。
ともかく外交交渉は決裂、戦争の時代に入りました。第2次ポエニ戦争の勃発です。
ハンニバルは、本拠ヒスパニアにも十分な守備兵力を残し歩兵3万8千、騎兵8千、戦象37頭を率いてローマとの戦いに出陣しました。
ローマがハンニバル軍の進発を知ったときには、ハンニバルはすでにロンバルディア平原を望むアルプス南麓に到達していました。ハンニバルは、ローマの同盟国であるマッシリアのあるガリア南岸を避け、ローマが予想もしない険しいアルプス山脈を越えるルートを取っていたのです。
しかし、難行軍でカルタゴ軍は半減していました。途中合流したガリア兵でその穴は埋められましたが、精強な部隊の不足の影響は後々響くことになります。
建国以来久しく本土に敵を入れていないローマはあわてました。すでにヒスパニア遠征の準備をしていた部隊もハンニバル軍迎撃に振り向けます。しかしハンニバルの巧みな待ち伏せ攻撃を受け何度となく惨敗を繰り返しました。
ハンニバルは戦術的勝利を繰り返すことで、ローマと同盟を結んでいたラテン諸国都市に動揺を与え、ローマ同盟から離反させ自陣営に引き込むことをもくろんでいましたが、何度敗北してもローマ同盟は微動だにしませんでした。それだけローマの支配が巧みであり、他都市の住民の心をつかんでいた証拠です。
かといって直接首都ローマを攻略するには兵力が不足していました。一説には当時のローマの動員兵力は75万とも言われています。これだけの潜在兵力を持った古代国家はほとんどありません。人的資源の圧倒的有利さもまた、ローマを世界帝国に押し上げた要因でした。
ハンニバルはローマの直接攻略を諦め、ギリシャ系都市が多く、比較的離反させやすいイタリア半島南部攻略に切り替えます。これは一応の成果を得ました。なかでも南部の要衝カプアの離反はローマにとって痛手でした。
紀元前216年、ハンニバルはイタリア半島の長靴のアキレス腱部分に当たるアプリア地方カンネーを攻撃します。ローマはこのまま放置していては南部諸都市の離反を増大させ収拾のつかない状況になると危惧し、ハンニバルと最終決戦をする決意を固めました。
二人の執政官ヴァロとパウルスに率いられた8万の大軍がカンネーに進撃しました。一方ハンニバル軍は5万弱、戦闘の経過は以前記事に書いたので割愛しますが、後世包囲殲滅戦の教科書に載るくらいの圧倒的なハンニバル軍の勝利に終わります。(カンネーの戦い)
しかし、この大敗は逆にローマ側の団結を促すことになりました。潜在的地力の差はこの後じわじわとボディブローのようにハンニバルを苦しめ始めるのです。
次回は、第2次ポエニ戦争の後半とカルタゴの滅亡を描く予定です。