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世界史英雄列伝(22) ロバート・E・リー 南北戦争の英雄

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◇ロバート・E・リー 1807年~1870年

1807年 バージニア州ストラットフォードで生まれる。
1825年 陸軍士官学校に入校。
1846年 米墨戦争に従軍(~1848年)
1861年 南北戦争勃発。軍を離れバージニア州に帰郷。
    南部連合の陸軍長官に就任。
1862年 アンティータムの戦い。
1863年 ゲティスバーグの戦い、南軍の退勢が決定的になる。
1865年 南部連合の陸軍大将に昇進。
    4月、南部首都リッチモンド陥落。グラントに降伏。
    10月、恩赦され、バージニア州ワシントン大学学長に就任。
1870年 死去。

 60万人の死者をだし、アメリカ最大の内戦となった南北戦争の爪あとは現在でも残されています。北部や中西部の発展に取り残された感のある南部ですが、この戦争を一人の人物に焦点をあてて振り返っていきましょう。
 
 ロバート・E・リー将軍、皆さんにはなじみがない人物かもしれませんが、アメリカでは今でも人気があるそうです。気品・勇敢さ・責任感・冷静さという指導者として得がたい資質をもったリーでしたが、彼は南部の将軍でした。
 リンカーン大統領によって、北部の総司令官に推されますが、南部に参加した故郷バージニアへの哀愁捨てがたく、この申し出を蹴って南部に走ったというエピソードがあります。

 リー将軍は名将でした。個々の戦闘では北軍を破り苦しめます。しかし人口で2倍、工業力・経済力ではるかに勝る北部の優位を覆す事はできませんでした。それが決定的になるのが1863年に起こったゲティスバーグの戦いです。
 この会戦は、両軍の意図したものではなかったそうですが、鉄道と多くの道路の合流点であり交通の要衝だったことから、軍の集結・補給が容易であったことが戦場になった理由でした。
 結局、陣地を死守する北軍を突破することができず、敵に増援が次々と来るに及んでリーは撤退を決意します。これが戦争のターニングポイントでした。

 1864年、西部戦線で活躍したユリシーズ・S・グラントが北軍総司令官に就任します。グラントは国力の優位を生かした、犠牲を厭わない消耗戦を実行します。またグラントの僚友だったシャーマンがジョージア州侵攻作戦を開始、徹底的な焦土作戦を敢行して物心両面から南部連合を圧迫しました。
 これが決定打となり1865年、南部連合首都リッチモンドが陥落、戦争は南部の敗北に終わります。

 余談ですが、シャーマンの残虐行為は現代でも影響を及ぼし、南部の人たちに深い恨みとして残りました。第2次世界大戦中、シャーマン戦車の搭乗を拒否した南部出身の兵がいたそうです。

 リー将軍は、道徳的見地からは奴隷制に反対だったそうです。にもかかわらず南軍に投じたのは故郷バージニアを愛していたからでした。北軍総司令官グラントに降伏したとき、リーは礼装用軍服に身を包んでいました。ところがグラントはだらしない野戦服のまま応対したそうです。
 戦後、グラントは大統領に就任しますが、汚職にまみれ「歴代最低の大統領」と評されました。一方、リーは教育の大切さを考え故郷の大学の学長になり、教育に力を注ぎました。このあたりが、今もアメリカ人に愛される一端でしょうか。