鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

幻の堀口城を探して   (その1)

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 前記事「規矩(きく)高政の乱と九州北条一族の最期」で、高政の弟、糸田貞義が籠城した堀口城がどこにあったか謎だという話をしました。

 そのあと貴重な情報も寄せられましたが、結論は出ず今後の研究課題だとお話したところで終わりました。あんまりマイナーすぎて読む人もいないだろうとは思いますが、私自身気になって気になって夜もろくに眠れないほどでしたので(爆)、今日インターネットで調べたんです。


,泙詐貊蠅筑後ではなく兄高政の篭った豊前帆柱城の近くではないか?という説
 
 北九州市小倉南区大字堀越に堀越城あり。あとこんな記事も

豊前国守護糸田貞義しのび 住民が石碑建立 
糸田城跡で除幕式

鎌倉時代末期、豊前国(県東部と大分県北部)の守護だった糸田貞義(1334年没)が居城を築いたとされる糸田町の糸田城跡に、貞義をしのぶ石碑2基が建立され、24日、除幕式と同城跡から見つかった五輪塔の説明会があった。
 昨秋、同城跡の祠(ほこら)から見つかった五輪塔室町時代に作られた物と判明。これを契機に貞義の存在を後世に伝えようと住民有志が「糸田城址整備世話人会」を結成、町民の浄財を募り、建立した。碑は、それぞれ「糸田城址」(高さ約2メートル)「糸田貞義供養之塔」(同約2.3メートル)と刻まれた。
 除幕式には、関係者ら約60人が出席。祝詞を上げた後、同会会員らが除幕をした。今後サツキなどを植樹し、公園化を計画しているという。
 説明会では、町の担当者が祠から見つかった五輪塔の破片などを示しながら、発見場所や歴史的意義などを解説した。


=2008/05/25付 西日本新聞朝刊=                              』

 可能性は高いと思いますね。名前は堀越ですが似てますし。時代が若干違うかな?という観もありますが。福岡県田川郡糸田町あたりが貞義の所領だといいます。ただそれだとなぜ兄の帆柱城に合流しなかったのかという疑問もあります。援軍の望みのない籠城戦では分散したら各個撃破されてしまいます。この場合は少しでも籠城戦を長引かせ敵側の内部分裂を待つしかないはずです。


肥後小国郷に籠城したのでは?という説

北条氏と肥後小国郷の関係については、弊ブログ記事「肥後小国郷と北条時定」
  http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/12538557.html
を参照ください。承久の乱以後、公家領を接収し北条氏の九州支配の要として勢力を扶植し続けたこの地なら味方する者も多かったのでは?と考えます。ただ、小国盆地だけだと石高は2万石にも満たず隣接する豊後には大友氏、すぐ南の阿蘇宮司家も建武政権に忠誠を誓っていましたから、籠城しにくい場所ではありました。それに城跡も下(しもの)城はじめ阿蘇一族下城氏の城ばかりで、北条氏関連の城が見つからないのです。下城氏はおそらく北条氏敗退後に小国地方に入ったはずですから時代が違います。


 どちらの説も一長一短あります。これは今後の研究課題でしょう。



 頭を悩ませていた私が、ふとインターネットで検索していると、「武家家伝 問注所氏」に興味深い記述が…
『元弘三年(1333)、鎮西探題北条英時は大友・少弐らに攻められて博多で討死した。その子の規矩高政は糸田貞義と共に、北条の一党ら各地の反逆の徒党を集めて兵を挙げた。規矩高政は帆柱山城に依って、宗像大宮司・少弐氏らと戦ったが討死した。一方の糸田貞義は筑後国三池郡で、黒木・問注所・草野・星野の各氏を味方につけ、堀口城に立て籠ったが大友氏の攻撃を受けて討ち取られた。元弘の動乱期、問注所氏が幕府方に味方していたことが知られる。』

 これは筑後三池郡の可能性が高くなってきましたね!黒木・問注所・草野・星野といえば筑後の有力武士団です。彼らが味方するにしても、豊前や肥後(小国は筑後に近いにしても)にわざわざ出向くことはないでしょう。筑後国内にも鷹取城など名だたる堅城はいくつもあります。もし貞義が筑後にいたのなら国内での籠城を勧めるのでは?と考えます。


 だったら、堀口城はどこにあったのか?情報の寄せられた堀切城について調べて見ました。「武家家伝 田尻氏」によれば、天文17年(1548年)田尻親種が本拠鷹尾城を築いた時に江浦城・浜田城・津留城・堀切城の各支城を固めたとあって、時代がぜんぜん違います。もっとも古くからあった城を修築して固めたのかもしれませんが…。


 ところで話はかわりますが、みやま市清水寺という名刹があります。なんでも伝教大師最澄の開山という由緒ある寺ですが、その歴史を調べていくと源平合戦時、平家に味方した清水寺衆徒に対し、源氏方の緒方三郎惟栄が焼き討ちし、平家方の残党は堀口城に逃げ込むも、皆殺しにされたという記述を発見したのです。ただその資料では、このとき奮戦したのが糸田貞義とあって、その点があてにならないのですが…。源平時代と鎌倉末期の歴史を混同しています。


 ただ、この記述から推理を廻らすと堀口城は清水寺の近くにあった。そして清水寺の詰めの城的な性格であったと読み取れないでしょうか?もっとも時代を混同してるので、根本が間違っているのなら推理は成り立ちませんが。


 田尻氏の堀切城がどこにあったか分かりませんが、田尻氏の支城の一つである江浦(えのうら)城跡は見に行ったことがあります。といいますのも先祖が立花家に仕えていた関係で、この城は縁が深いのです。立花宗茂柳川城に入城した際、ここに城番を置いていて、どうもうちのご先祖様がその役目を仰せつかった時機があるみたいなのです(笑)。そんな余談はともかく、江浦城の規模から考えて同程度だったとすると、とても筑後中の武士団を収容できる規模ではなかったのではないかと考えました。


 では堀口城はどこなのか?ここで私は数千の軍勢が籠城できるのかどこか?という視点から考察しました。むかし清水寺に訪れた時、山城跡があったようなかすかな記憶があるのです。清水山一帯を城塞化すれば、たしかに数千規模くらいの軍勢を収容できるのではないかと。

 もちろん、私の想像でしかありません。郷土史家の先生が見れば噴飯ものの主張かもしれません。しかし、三池郡内で大規模な籠城戦を戦うにはここしかないように思います。


 ここまではデスクワークあとはフィールドワークです。(その2)は現地調査になります。近日中に出かける予定です。皆さんも何か情報があればどしどしお寄せください。その前に誰もこんなマイナーな記事読まないという話もありますが…(爆)。