鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

北条氏滅亡余話

 1333年鎌倉幕府が滅亡します。そして翌1334年から1335年にかけて各地に潜伏した北条一族が挙兵しました。

 その最大の蜂起が中先代(北条時行)の乱だとすると、九州においては規矩(北条)高政、糸田(北条)貞義の乱が起こります。

 さらには長門、伊予、奥州、日向でも北条一族が蜂起したそうです。興味のある人はおそらく少ないと思いますが、備忘録としてここに記します。



◇奥州(青森県)… 名越(北条)時如(ときゆき)。ウィキペディア、大光寺城の記事に『正慶2年(元弘3・1333)、鎌倉幕府が滅亡、北条一族の安達高景と名越時如が逃れてくると、曾我道性はこれを受け入れたため、岩館曾我光高や、成田泰次・工藤貞行によって攻め込まれ、大光寺城から石川城、持寄城に逃れたが、敗れ、大光寺曾我氏は滅亡した。』とあります。



長門    … 北条上野四郎。長門探題北条時直の遺児。1335年長門下山(長門探題のあった長府市付近か?)で挙兵。宮方の石見津和野城主吉見氏らに鎮圧される。長門探題方である厚東氏らの寝返りがあったらしい。



◇伊予    … 赤橋(北条)重時。鎌倉幕府最後の執権、赤橋守時の弟宗時の子。滅亡時叔父である
鎮西探題、赤橋英時のもとにいたのか不明。1335年伊予恵良城(あるいは立烏帽子城とも?)で挙兵。河野通綱、土居通増らの軍勢に攻められ立烏帽子城で敗死。



◇日向は不明 … ウィキペディアでは日向でも北条一族蜂起とありますが、日向の穆佐院が赤橋家の所領だったためでしょうか?一応郷土史を当たってみましたが高城町史などをみても北条氏が当地に下向した形跡なしとあります。幕府滅亡後、妻である赤橋登子の所領を受け継いだ足利尊氏が荘園支配を固めるため一族の畠山直顕を派遣したぐらいですから、蜂起は無かったのかもしれません。もともと穆佐院は島津忠久領だったのを、忠久が比企の乱に連座して北条氏に奪われたもので、日向においては北条方は少なかったようです。(高城町史より)





 調査して分かった事があります。糸田貞義の堀口城の場所が謎なのと同様、奥州の持寄城の場所も謎なのだそうです。一応ここではないか?と言われる場所は規模が小さすぎるそうです。
 伊予の場合は、そもそもの挙兵場所からしてはっきりしていません。資料によっては立烏帽子城に籠城せずに恵良城で討死したというのもあるくらいです。


 これは全国の北条氏ファンで集まって、それぞれの研究発表をしたいですね(笑)。