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北条早雲の人心掌握術

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 戦国時代の下剋上の代表といえば、斉藤道三、松永久秀と共に北条早雲が上げられます。この早雲、えげつない謀略でのし上がりましたが、不思議と領民の評判は良かったそうです。
 作家童門冬二さんの「男の器量」という本には、その秘密の一端が記されているのでご紹介します。

 北条早雲は、新領地を得るとかならずこのように布告したそうです。
(1)略奪・暴行はこれを許さない。
(2)領民も、どさくさにまぎれて他人の財産を盗むことは許さない。
他国に占領されると、ひどい略奪・暴行があるのが当たり前だった当時、これは稀有なことでした。織田信長が兵を率いて京都にのぼったとき、略奪・暴行を禁じて人心を得た事実もあります。足利幕府の重臣伊勢氏の一門とも言われている早雲ですが、一介の浪人として駿河の今川氏に仕え、大功をあげて興国寺城主となったのですから、民衆の有様などしっかりつかんでいたのでしょう。

 早雲が領内視察中、ある村を訪れると、家々には病人だけが残され、健康なものは一人もいなかったそうです。早雲は、自分の支配を嫌って住民が逃げ出したと思い、病人に尋ねてみると、
「そうではありません。皆御領主様の統治に満足しています。この村に悪い伝染病がはやり、若いものにうつってはいけないので、避難させているのです。」という答えが返ってきます。
 若いころ、諸国を流浪していた早雲は薬草の知識も豊富でした。すぐさま部下を集めると見本を示し、同じ薬草を探させます。部下たちに各戸を回らせて、病人たちに飲ませました。さらに一戸ごとに三人の兵を寝泊りさせて介抱させたそうです。
 「はやく病人を治したものには褒美をやる。」との早雲の言葉に部下たちはがぜんヤル気を起こします。熱心に病人の面倒を見ているうちに、病人と部下たちの心が通うようになりました。こうなると次々と治る病人がでてきます。当然涙を流して感謝しました。すぐ山に入って避難している若者たちに伝えると、彼らもぞろぞろと山を下りてきます。これで領主と領民の心が一体となりました。

 どうです?心憎いまでの早雲の行動でしょう。評判をよんで、他国の住民も早雲の領民になろうと望むようになってきました。だまし討ちで領地を増やした早雲でしたが、領内が安定したのは、このようなきめ細かい統治に腐心したからでした。北条氏は後に関東に覇を唱えるようになりますが、初代早雲の基礎がしっかりしていたからこそできたことです。