若い頃、彼が三河一向一揆側に組し家康に敵対した経験があるのは有名な話です。三河武士の象徴ともいうべき大久保彦左衛門の「三河物語」でも「算盤の上手い、代官みなりの男」と評されています。
ところで正信が徳川家に帰参がかなったのは、彦左衛門の兄で大久保党の惣領である忠世のとりなしがあったからでした。そればかりか忠世は正信の諸国流浪中、息子の正純を預かって養育までしていました。正信は大久保忠世に返しきれないほどの恩を受けていたのです。
しかし、徳川家の重鎮であった忠世が死去すると、息子の忠隣と正信は政治的に対立する事となります。武功派の代表であった忠隣と、文治派の代表であった本多父子はしだいに深刻な関係になっていきました。
徳川家中の主導権争いがあったのでしょう。しかも関ヶ原以後、武功派はしだいに疎んじられ、文治派が力をつけてくるのは時代の流れでした。
それでも武功派に大久保長安という知恵袋兼スポンサーがいる間は、本多父子は武功派に手を出す事はしませんでした。しかし、長安が死去するやいなや讒言によって長安一族を葬り去り、忠隣もまた罠にはめて失脚させます。
徳川幕府安泰のためには仕方ない選択だったのでしょう。しかし、どうも本多父子に良心の呵責があったような形跡は見えません。これは私の勝手な印象なので事実は違うのかもしれませんが…。
世間でもそう見ていたみたいで、本多親子は蛇蝎のごとく嫌われます。徳川四天王の本多忠勝や榊原康政ら武功派からも憎みぬかれました。
正信自身は無欲で、財産を残すこともしませんでした。ひたすら徳川家のため、悪に徹したともいえます。しかし、倅の正純は驕慢で同僚からも嫌われました。有名な宇都宮釣り天井事件は冤罪ともいわれますが、改易になっても誰も同情しませんでした。
まさに天罰だったのかもしれません。