このエフタルという民族あるいは国家名を知っている人はほとんどいないかもしれません。しかし世界史的にみると結構重要な役割をはたしているのです。5世紀から6世紀にかけて、突如勃興したエフタル。その本拠はパミール高原の入り口バダフシャン渓谷だといわれています。民族系統は不明ですがおそらくイラン系の印欧語族ではなかったかと推定されています。
現在のアフガニスタンを中心に西はイラン高原東部、東はトルキスタン、南は西北インドまで制圧しインドの統一王朝グプタ朝衰亡の原因ともなりました。西ではササン朝を脅かし一時王都を占領し国王をすげ替えるほどの威勢をしめし、ためにササン朝は毎年エフタルに莫大な歳幣を贈るという屈辱的和平を結ばされました。
この状態に我慢ならなかったササン朝は、エフタル勢力の東辺に勢力をのばしつつあった新興の遊牧国家「突厥」(とっくつ、チュルクの漢訳)に目をつけます。秘かに同盟を結んだ両者は東西からエフタルを挟撃、これを滅ぼすことに成功しました。
ここまで読んできて、中国史に詳しい方はピンときたと思います。そうです。ササン朝を宋、エフタルを女真族の金、突厥をモンゴルに当てはめるとその後の経過は容易に想像がつくでしょう。
文明国側は、「毒を持って毒を制した」つもりでしょうが、あとからくる毒のほうが遥かに強いのです。東は満州からササン朝東辺まで制圧し一代遊牧国家となった突厥は、更なる脅威としてササン朝を悩ましました。
事実上、エフタルの滅亡がトルコ民族の西方大移動の引き金となりました。このトルコ人を中心とした遊牧民族の第二次民族大移動は欧州にも波及します。トルコ人の一派といわれるアバール人は遠く東ヨーロッパに進出し、東ローマ帝国やフランク王国と戦いながらパンノニア平原に落ち着きます。これが現在のハンガリー人です。
突厥国家自体は、まもなく東西に分裂し国家としての脅威は薄くなりましたが、トルコ民族は部族ごとに中東各地に移動しイスラム国家の傭兵となりながら勢力を扶植します。そしてついにはエジプトのマムルーク朝のように国家を乗っ取る者や、セルジューク朝のように中東の大半を勢力化に収めた大国家を建設する者まで現れました。
トルコ民族の猛威は近世になっても続き、欧亜にまたがる大国家を建設したオスマン帝国もトルコ人国家でした。こうしてみると幻のように出現し、幻のように滅んだエフタルは、その後の世界史の動向をきめる鍵の役割をはたしたとも言えます。私鳳山が世界史に魅せられるのもそこなんです。