民族系統は不明。エトルリア人自体もローマの発展と共にラテン人と同化し現在民族としては残っていません。しかし痕跡は残っています。
エトルリア人は、半島中部を中心に12の都市からなる連合を形成していました。イメージ的にはギリシャのポリス(都市国家)連合に近いと思います。エトルリア起源の都市も多く、例えばフィレンツェはエトルリア時代「フラレンティア」と呼ばれていました。エトルリア都市ペルージャは現在もそのままの名前で残っていますね。
エトルリア人がローマのようなラテン人ではなかったのは確実ですが、謎の民族といわれながらもルーツを推定する事は出来ます。彼らは小アジア西岸のリディアからやってきたという伝説を持っています。ということは地中海沿岸ではなくアジアが起源だった可能性があります。もしかしたらフェニキア人同様セム系の民族だった可能性さえあるのです。そうでなかったとしてもミノア文明を築いた人々に近い原地中海人だったのではないでしょうか?
よく言えば進取の気鋭に満ちた人々、悪く言えば両勢力のあぶれ者たちが集まったといわれます。初期のローマはラテン人とエトルリア人が混住していた都市でした。王政時代のローマで最後の三人の王はエトルリア系だったとも言われます。
エトルリア人は、最初ラテン人を文明の遅れた野蛮人と歯牙にもかけていませんでした。そのため争いになる事も少なかったように思います。ところがローマが発展してくると次第に脅威に感じ始めます。
ローマが王政を廃止し、共和制に移行した陰にはエトルリア人支配からの脱却を目指したという事もあったでしょう。あぶれ者たちの集まりであったローマはラテン人とエトルリア人の良いところを積極的に取りいれる事が出来ました。
こうして強大化したローマは、同じラテン人諸都市だけでなくエトルリア諸都市さえも圧迫し始めます。ローマがエトルリア諸都市をどのように支配していったか良く分かっていません。というのもローマ人はエトルリア人に一時支配されていたという屈辱の歴史を消したかったからです。
しかし、ローマが他のラテン諸都市を支配し始めたのとあまり違わない時期に、あるいは戦争であるいは外交によって従わせていったのだともいいます。そして最後は同化政策によって痕跡を消したのです。
ただ私が考えるに、ローマ建国神話であるロムルスの話はどうもエトルリア起源のような気がします。もともとエトルリア人がリディアから来たという伝承がローマ人に伝わりローマ人はトロイの子孫(両者はともに小アジア西部)という話になったのではないでしょうか?