桓武の後を受けた三人の兄弟、平城、嵯峨、淳和(じゅんな)天皇は父桓武と比べると個性に乏しい人たちでした。もちろん芸術の分野では見るべきところもありますが崩れゆく律令体制にどう取り組んだか?がほとんど見えてこないのです。もしかしたら父ほど危機意識を持っていなかったのかもしれません。
太政官の顔ぶれも、右大臣に藤原北家の内麻呂、大納言に南家の雄友をはじめ早くも藤原氏独占が始まっていました。なかでも式家百川の子緒嗣(おつぐ)は新進気鋭の参議、後の政治を主導するホープとして期待されていました。
平城は異母弟で潜在的に皇位を窺う可能性を持つ伊予親王を除く考えを持っていました。ある時藤原北家の宗成が伊予親王を唆して謀反を企んでいるという讒言が同じ北家の右大臣内麻呂に届けられます。ところが内麻呂は真相を調べもせずこれを庇うどころか直ちに平城天皇に報告しました。
それにしても同じ北家の中でも系統が違うと平気で陥れる藤原一族の権力争いには驚かされます。
藤原一族は、平城天皇に自分の娘を入れ子を成させ外戚となる事で権力を握る事を夢見ていました。藤原式家の縄主は自分の娘を天皇の後宮に入れました。ところが天皇はその娘を寵愛せずあろうことか娘を世話するために後宮に入った母薬子(くすこ)に溺れてしまいます。
薬子は式家の出身で、その関係で兄の仲成が宮中で権力を握りました。
しかし平城は上皇として嵯峨の政治に口を出し、二所朝廷といわれるほど政治は混乱しました。平城上皇は仲成、薬子兄妹に唆され弟嵯峨天皇を廃して再び皇位に返り咲く陰謀をめぐらせます。これが薬子の変という大乱に発展するのです。
冬嗣は藤原北家右大臣内麻呂の次男として生まれました。幼少期から英邁の誉れ高く嵯峨天皇は皇太弟時代からこれを重用します。810年嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置するとその初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任するほどでした。
冬嗣は、閨閥の形成にも心を配ります。自分の長女順子(じゅんし)を嵯峨天皇の皇子正良(まさら)親王に嫁がせるなど着々と手を打って行きました。のちに正良は淳和天皇の後を受け仁明天皇として即位しますから恐るべき慧眼です。