武士の時代の始まりとも言うべき保元の乱、本稿で見て行こうと思います。
まず乱の原因を説明しなければならないのですが、少々複雑なので皇室と摂関家に分けて説明します。
◇「皇室の争い」
院政とは、白河上皇がそれまでの摂関政治に代わって1086年に始めた政体です。藤原摂関家の影響力を削ぐため退位して自分の子(あるいは孫)を天皇の位に就け、天皇の父(上皇あるいは法皇)として統治を行いました。
白河法皇の孫に当たる鳥羽法皇の時代が院政の頂点でした。しかし強烈な個性の持ち主であったため色々なところに歪がおこります。鳥羽院の寵妃美福門院(藤原得子)は、自分の産んだ体仁親王を天皇にするため、鳥羽院を動かし待賢門院(藤原璋子)の子崇徳天皇を強制的に退位させ、親王を近衛天皇として即位させました。
俗に崇徳天皇は白河院と璋子との不義の子で、そのために父の鳥羽法皇から疎んじられたといわれていますが歴史的史実として確認されたものではないようです(河内源氏 元木泰雄著 中公新書)。むしろ美福門院側の流した工作だったという線も捨てきれません。
しかし苦労して皇位に就けた近衛天皇は1155年わずか17歳で崩御してしまいます。このままでは次の皇位は、美福門院が嫌った崇徳上皇の子、重仁親王に持って行かれます。一計を案じた彼女は、自分が養子にしていた守仁親王を皇位に就けようと工作を開始します。
そんな中、1156年鳥羽法皇が崩御しました。中継ぎにすぎない後白河体制は盤石ではありません。強制的に退位させられ、自分の息子も皇太子を廃嫡させられ院政の望みも断たれた崇徳上皇は不満を持ち続けます。そこを摂関家の悪左府頼長に乗ぜられたのが乱の原因でした。
◇「摂関家の争い」
日本史に詳しい方ならご存知だと思いますが内覧は令外官で摂政関白になる者がその前段階で就任するもので、ほとんど関白と職域がかぶります。この事実上の親子二人関白状態が政治を混乱させました。
自分の息子とはいえ、関白職を奪われたことから忠実と忠通の親子関係はぎくしゃくしていきました。かわって忠実は晩年の子で忠通とは25歳も離れた頼長を溺愛します。学問好きで目から鼻に抜ける才子というところも忠実の気に入るところでした。
忠実と関白・忠通の対立は極限まで来ます。忠実は忠通から藤原氏の氏の長者の地位を取り上げ頼長に与えました。しかも忠通を義絶するという念の入れようだったのです。
ところで、頼長とはどういう人物だったのでしょうか?彼が学問好きの才子であった事は間違いありません。しかし冷酷非情な人物だというのが世間のもっぱらの評判でした。頼長は若くして累進し左大臣そして父から譲られた内覧の地位にありました。
自分の才を頼む頼長でしたが、所詮摂関家の御曹司、甘いところがありました。 後白河天皇即位で自分がもとの通り内覧となって権力を握る事を期待していたといわれますが、その夢は美福門院側によって粉々に打ち砕かれます。
近衛天皇崩御が前関白忠実と悪左府頼長の呪詛によるものと噂を立てられ、失脚してしまいました。頼長は自分が窮地に陥って初めて美福門院側の陰謀を悟ります。怒った頼長は復讐を使いました。ここに崇徳上皇と悪左府頼長結びつきのきっかけが生じます。
では美福門院陣営に、ここまで絵を描ける人物はいたのでしょうか?はい、一人だけいました。その名は信西(しんぜい)入道藤原通憲(みちのり)。正五位下小納言という摂関家とは比べ物にならない低い官職ですが、代々学問の家系で彼の学識は頼長の趣味の学問の域を超えていました。
信西入道は、雅仁親王(後白河天皇)を養育していた関係(乳母夫)から利害の一致する美福門院と結託し、陣営の参謀役に収まっていたのでした。信西は次第に頼長を追い詰め蜂起せざるを得ないようにもっていきます。
さながら、蜘蛛が巣に絡みついた昆虫をゆっくり料理するが如きでした。
後編では保元の乱の経過を辿ります。