鳳山雑記帳はてなブログ

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坂東八平氏の謎

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 NHK大河ドラマ平清盛のあまりのつまらなさに、ひさしぶりに懐かしの大河「風と雲と虹と」を見ました。平将門藤原純友を主人公とし承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱を描く作品ですが、昔の大河はものすごく面白いですね。
 
 その中でふと坂東八平氏って本当に平良文の子孫だろうか?と疑問に思ったんです。といいますのも国香→貞盛の嫡流ラインは伊勢平氏として後の平氏政権につながるので納得なんですが、国香戦死後房総平氏の棟梁として、反逆した将門と対立した国香の弟良兼や良正の子孫がどうなったかあまりにも曖昧なのです。
 
 金魚のフンの良正はともかく、平高望正室の子である国香、良将(将門の父)、良兼は父から広大な土地を受け継いだはずだし実際将門との合戦ではあわせて四千騎(当然誇張はあるでしょうが)も集めたほどの大領主でしたから。
 
 
 とここまで書いてきてふと気付いたんですが、一般の方は坂東八平氏自体ご存じないのではないか?と(苦笑)。
 
 
 【坂東八平氏】とは…平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「平氏」と呼ばれた。主に秩父氏上総氏千葉氏中村氏三浦氏鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏梶原氏大庭氏長尾氏などが入るが、数え方はその時々の各氏族の勢力により、様々である。(ウィキペディアより)
 
 
 要するに関東地方で平氏の子孫と称する千葉氏や三浦氏など有名どころ全部のことです。
 
 
 彼らは皆、平高望の妾腹で武蔵村岡に土着したことから村岡五郎と称した良文の子孫を名乗っています。
 
 ただ異説では、長尾氏などは平良兼の子孫という説もあるんです。ですから厳密に調べたら良文の子孫じゃない可能性も高いと思います。
 
 
 ではなぜ彼らが良文の子孫を称したかですが、私が考えるにどうもその方が関東支配に都合か良いと判断したのではないでしょうか?
 
 というのも、村岡五郎良文は国香らと異母兄弟である事もあって将門の乱では甥の将門に味方してるようなのです。結局将門は朝廷側の反撃にあって滅ぼされますが、関東の人々に後々まで慕われたといいます。
 
 
 とすれば、将門を滅ぼした側の国香、良兼、良正の子孫と称するよりは将門に味方した良文の子孫と言うほうが支配に都合が良いと考えたのではないでしょうか?案外桓武平氏嫡流の貞盛の子孫が関東に残れず(北条氏などは伊豆に逼塞してますし)伊勢に本拠を移したのもこのような経緯があったのかもしれません。何の学術的裏付けもないのであくまで想像ですが…。
 
 相馬氏も平将門の子孫と称していますが千葉氏の支流っぽいですし、三浦・大庭・長尾・梶原・鎌倉の五氏の祖となった鎌倉権五郎景政などはどうも良兼の子孫らしいといわれています。あえていえば後に大反乱を起こした平忠常も、本拠地の関係からすれば良兼の子孫という可能性は高いと思います。
 
 
 こういうのは言った者勝ちですからね。何世代も経れば誰も真実を追求できないでしょうから(苦笑)。
 
 皆さんはいかが思われますか?というより誰も読んでないか?(爆)