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賈充と賈南風  二つの国を滅ぼした父娘

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 いきなり余談からですみません(汗)。
 
 三国志諸葛亮の北伐に際し、初めは魏将夏侯淵や曹真の副将としてのちには大都督雍涼諸軍事(魏の西方総司令官)司馬懿のもとで重要な将軍として蜀軍に立ちはだかった郭淮という武将を覚えておられる方も多いと思います。横山光輝の漫画では眼がぎょろっとして頬骨が高い異相をしてましたね♪
 
 街亭や斜谷の戦いでは粘り強い指揮で結局諸葛亮の侵攻を防ぎきったなかなかの名将でした。車騎将軍・儀同三司という高官に累進し晩年は雍涼の軍事指揮権まで任された魏の重鎮です。
 
 この郭淮の弟郭配に娘がおり名を槐(かい)といいました。彼女は同じく魏の重臣で剛直の士として名高かった賈逵(かき)の息子賈充(かじゅう)に嫁ぎます。
 
 二人の間には南風(なんふう)という娘が生まれました。
 
 三国志ファンの方は、賈充の名を聞くと眉をひそめられると思いますが(苦笑)、彼こそ権臣司馬炎司馬懿の孫)の腹心として魏王朝を滅ぼした張本人でした。
 
 魏王朝にとってはとんでもない逆臣ですが、直属の上司司馬炎にとっては忠臣中の忠臣ともいえます。
 
 賈充の暗躍によって魏の忠臣であった毌丘倹(かんきゅうけん)や諸葛誕が陥れられ淮南で反乱をおこして自滅させられたかと思うと憎んでも憎みきれません。とくに諸葛誕好きの私などは賈充は昔から大嫌いでした。
 
 
 しかし西晋を建国した司馬氏からみると、建国の大功臣であったともいえるのです。そして三国を統一し西晋が天下を平定すると賈充の功績は筆頭としてあげられ司空・尚書令(事実上の宰相)を歴任します。
 
 西晋一の権臣となった賈充の娘南風は武帝司馬炎)の皇太子司馬衷(後の恵帝)に嫁ぎます。
 
 皇太子妃になるくらいだからさぞかし美人だったと想像される方もいるでしょうが、実際は色黒の醜女だったと伝えられます。あまたの皇太子妃候補は賈充の権力により排除されました。おそらく武帝も建国の功臣であった賈充に遠慮して逆らえなかったのでしょう。
 
 醜女だけならまだしも南風は性格も最悪だったようです。残忍な彼女は気の弱い皇太子をいいように操っていました。
 
 
 それでも武帝存命時にはそれほど彼女の暴虐は目立ちませんでした。ところが武帝が290年崩御し恵帝が即位すると彼女は本領を発揮します。父賈充もすでに282年死去してますから何の遠慮もいりませんでした。
 
 南風は皇后に立てられますから以後は賈皇后と呼びます。
 
 賈皇后は朝廷の権力を握るためにまず楊太后武帝正室で恵帝の母)の一族で外戚として権勢をほしいままにしていた楊駿を滅ぼそうと画策しました。楊一族のために冷や飯を食っていた皇室の一族淮南王司馬亮、楚王司馬瑋らと結びクーデターを起こします。
 
 楊一族を粛清し今度は司馬亮が権力を握ると、司馬瑋と結託して司馬亮を滅ぼすなどやりたい放題でした。
 
 気が弱く知恵遅れとも噂されていた恵帝はこれに対し何もできません。残忍酷薄な賈皇后を恐れていたのかもしれません。
 
 我が世の春を迎えた賈皇后とその一族でしたが、四人の女子は生まれたものの男子に恵まれませんでした。側室の産んだ司馬遹が皇太子に建てられる事になり彼女は面白くありません。
 
 彼女は陰謀の限りを尽くして皇太子を廃嫡し、自分の息のかかった一族の男子を皇太子に立てようとしますが、これにはさすがに朝廷の群臣達も我慢の限界がきました。
 
 斉王・司馬冏(賈皇后の異母姉の子)と趙王・司馬倫、その側近の孫秀らが中心となって300年、クーデターを画策します。しかし計画は賈皇后側に漏れ、肝心の廃太子司馬遹が殺され失敗に終わりました。
 
 ところが動き出したクーデター計画は止められませんでした。4月夏司馬冏・司馬倫らは挙兵します。これが世に言う「八王の乱」です。八王とは淮南王・司馬亮、楚王・司馬、趙王・司馬倫斉王・司馬冏、長沙王・司馬乂成都王・司馬穎、河間王・司馬東海王・司馬越のこと。
 
 
 諸王の軍勢は都を制圧し、賈皇后はついに捕えられました。皇太子殺害の罪で賈氏一族は族滅、彼女も毒杯を飲む事を強要され殺されます。こうして一人の女性の権力欲のために国家はズタズタにされました。
 
 諸王は権力の座に就くと、今度は互いに争うようになります。その過程で周辺に住む異民族を引き入れたため彼らの力が増し司馬一族は皇帝を次々と挿げ替えながら急速に王朝は弱体化しました。
 
 
 八王の乱自体は306年集結しますが、晋王朝は有名無実の存在となり中原奥深く侵入した異民族によって国土は勝手に切り取られそれぞれの民族が自立し建国するようになります。これが五胡十六国時代です。
 
 匈奴単于劉淵が304年山西で自立したのが始まりとされますから、八王の乱中に晋王朝は滅び始めていたといえるかもしれません。
 
 
 それにしても一人の女性が一国を滅ぼすのですから怖ろしいですね。傾国の美女の場合、男がそれに溺れて国を滅ぼすケースが多いのですが、色黒の醜女、残忍酷薄でありながら彼女は頭も切れる女性だったのでしょう。惜しむらくはそれがマイナス方向に働いたために自分が滅ぶとともに国まで滅ぼす結果になりました。