

細川氏は早くから分かれたため決して家格は高いとは言えず、例えば足利一門で最も家格の高い斯波氏などからは家来扱いでした。南北朝時代の斯波氏の当主高経が将軍から管領就任を要請されたとき「管領といえども足利家の家来にすぎない。細川などと同列に扱われてたまるか」と断ったという有名なエピソードがあります。
斯波氏のプライドの高さには呆れるばかりですが、例に出された細川氏にとってはたまったものではありません(苦笑)。だからといって細川氏が斯波氏に復讐したという話は聞かないので、一門の中でもそういうものだと思われていたのでしょう。ただし細川頼之と高経の子義将は政敵でしたが…(苦笑)。
細川家が足利幕府で権勢をふるうようになったのは、家格ではなく一族の献身的奉仕が理由でした。公頼の子、和氏・頼春と頼貞の子顕氏・定禅(じょうぜん)は足利尊氏を助けて各地を転戦します。
幕府が成立すると、この功により細川一族は各地の守護に任じられます。嫡流の和氏が引付頭人、ついで侍所頭人そして初代阿波守護に任じられたのをはじめ、弟の頼春は阿波、備後守護、その下の弟師氏は淡路守護に、従兄弟の顕氏は讃岐・河内・和泉三カ国の守護、その弟定禅は土佐守護と実に一族で7カ国もの守護を兼ねる大勢力になりました。
しかし1350年尊氏の執事高師直と弟足利直義の対立から尊氏・直義の兄弟対立に発展した観応の擾乱が起こると、細川氏も安泰ではいられなくなります。和氏は1342年47歳で急死、嫡子の清氏が後を継いでいました。
再び足利方が京を奪還した事を見届けて顕氏は1352年7月病死。顕氏の系統は陸奥守の官位から奥州家と呼ばれました。
細川一族の有力者が次々と戦死、病死するなか次第に権力は清氏に集まってきます。1358年管領(当時は執事)に任じられた清氏でしたが、その強引な施策から政敵も多く讒言を受けて失脚します。清氏は本拠の四国へ下ると腹いせとばかり南朝に帰順、従兄弟の頼之(頼春の嫡子)が阿波守護として現地にいたためこれを攻撃、公然と幕府に反旗を翻しました。
清氏には讃岐(塩飽)水軍なども味方に付いてたため、頼之は苦戦しますが激戦のすえこれを撃破、清氏を滅ぼしました。
細川頼之は二代将軍義詮の絶大な信頼を受け、遺言により三代義満が将軍に就任すると管領になってこれを補佐しました。頼之は名管領として南北朝合一に力を尽くし、途中政敵による失脚もありましたが細川家の権力を確立します。頼之には子がなかったため弟の頼元が後を継ぎました。
この養子三人が家督を争い、政元自身もそれに巻き込まれて1507年殺されました。
大内、高国と澄元は戦い続けますが1518年大内義興が帰国するとついに京都を奪回、高国を近江に追放して再び管領に返り咲きました。しかしまもなく高国の反撃を受け、政権は崩壊、家宰の三好之長は捕えられて処刑され、自身も播磨、そして本拠地の四国阿波に逃亡します。1520年澄元は阿波勝瑞城で失意のうちに病死しました。享年32歳。
澄元の死後嫡子の晴元が継ぎます。三好之長の孫三好元長とともに再び畿内へ進出、高国を討ちますが高国の子氏綱と争っているうちに、元長の子三好長慶が氏綱方に付いたため敗北、勢力を失い最後は出家して摂津普門寺に隠棲したそうです。
晴元の嫡子、昭元はすっかり没落し、信長、秀吉に近臣として仕えます。秀吉のもとでは山名豊国、斯波義銀とともに没落した元名門としてお伽衆になったそうです。1592年病没。子孫は三春藩秋田家に仕え家老として続きます。
庶流の細川藤孝(頼之の弟頼有の子孫)、忠興が織田・豊臣・徳川政権を上手く泳ぎ切り最後は肥後54万石の大封を得たのと比べるとあまりにもさびしい晩年でした。