鳳山雑記帳はてなブログ

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ロンドンの誕生とボーディカ女王の乱

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 パリの歴史に味をしめて今度はロンドンの歴史を記事にしました(笑)。人気なさそうだけど「世界の都市の歴史」でシリーズ化しようかな?ローマとかの有名どころは外してカイロとかブタペストとかのマニアックなところで(爆)。






 もともとブリテン島に住んでいたのはガリア人と同じケルト系民族でした。民族学に詳しくないのでイベリア=ケルト系とどう違うのかそれとも同じなのかは分かりませんが、おそらくこの地に最初に入った外国人は有名なユリウス・カエサルかもしれません。


 ガリア戦記にも言及されていますが、このときはガリア征服のために後顧の憂いを断つのが目的でしたから一時的な占領にすぎなかったと思います。



 しかし、ローマ帝国が発展していくにつれブリテン島にもローマ人の入植が行われついには属州ブリタニアとしてローマの支配下に入ります。ローマ人は属州の首都としてテムズ川の北岸にロンディニウムという町を建設しました。ケルト人の言葉で「沼地の砦」を意味するそうです。



 歴史はいつも勝者の立場に立って書かれるためブリタニアがまるで無人の地でローマ人によって開発されたと思いがちですが、先住のケルト人にとっては侵略以外の何物でもありませんでした。

 ブリタニア南部のケルト人は、スコットランドの剽悍な山岳民族ピクト人などとは違い比較的おとなしかったと言われていますが、ここまであからさまに侵略されると我慢の限界に達しました。おそらく支配者ローマ人による土地の収奪や、徴税請負人による過酷な税の取り立てがあったのでしょう。


 ついにケルト人達は、イケニ族の女王ボーディカを旗頭にローマ支配に対する反乱に立ち上がります。紀元61年といいますから、悪名高いネロ皇帝の時代でした。


 ボーディカは背が高く、腰下まで伸ばした赤い髪を靡かせ、荒々しい声と鋭い眼光を持っていたと伝えられています。夫であった先王プラスタグスをローマ人に殺され自身と娘たちまでローマ人に辱められたため恨み骨髄に達していたそうです。



 初めこの反乱を甘く見ていたローマはわずかな討伐軍を送っただけでしたが、あっさりと返り討ちにされてしまいます。それどころか反乱軍はロンディニウムまで落とす勢いでした。

 現地のローマ軍司令官・属州総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスは、数十万にも膨れ上がった反乱軍に対処するため、ブリタニアにいたローマの正規軍団2個軍団を呼び寄せ野戦によって雌雄を決しようと考えます。


 両軍はロンディニウムからウィロコニウムの間のワトリング街道上で激突しました。兵力比は伝えられるところによると反乱軍23万、ローマ軍1万余りと圧倒的な差があったそうです。


 しかし地中海世界を制したローマ軍の力は絶大で、ガイウス・スエトニウス・パウリヌスの優秀な指揮もあり反乱軍はこの戦いで壊滅してしまいます。おそらく寄せ集めの反乱軍ではウェリテス(散兵)の投槍からはじまり3段の戦列(ハスタティ、プリンキペス、トリアリィ)と両翼の騎兵を有機的に運用するローマの組織だった戦術に対応できなかったのでしょう。
(ただしマリウスの軍制改革で兵種の区別はなくなり、こういう呼称が残っていたかは不明。元は財産に応じて分けられていたが、すべて志願兵となっていた。投槍・弓を使う散兵とグラディウス(スペイン式短剣)、槍を使用する兵種の区別はあったらしい)


 記録によるとローマ軍の戦死者が400名に対し、反乱軍は死者8万を数えたともいいます。女王ボーディカはこの敗戦に絶望し毒を仰いで死んだとされます。また一説では戦場からは逃れたものの病気にかかり死去、荘厳な埋葬が行なわれたとも言われています。


 ともかくこれによって組織だったケルト人の抵抗は消え去り、ローマ帝国によるブリタニア支配が確立しました。余談ですがスエトニウスはこの軍功を背景に66年に執政官(コンスル)となりました。皇帝ネロ死去後に起こった内戦でも皇帝候補オト(のちに皇帝になる)の軍司令官となりクレモナの戦いで勝利するなど活躍しました。ただ、その晩年ははっきりしていません。



 ローマも、過酷な支配が住民反乱を招いたと反省しその後は穏健支配に改めたそうです。5世紀初めごろまでローマ支配が続きますが、ロンディニウムは人口4万を数え繁栄しました。

 その後七王国時代にはウェセックスの首都とされます。おそらくこの時代にロンドンと名前を変えたと想像します。以後ロンドンは歴代イングランド王朝の首都として栄え現在に至っています。