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目から鱗の「新説 桶狭間合戦」

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 最近読んだ日本史関連の特に印象深かったのが「新説 桶狭間合戦」(橋場日月著・学研新書)でした。

 数々の謎を含む桶狭間合戦を独自の視点から解釈した良書だと思います。この文章、どこかで見たことあるなと思っていたら、学研の「歴史群像」に載ってた記事を加筆したものでした(笑)。


 1560年織田信長が強大な今川義元を破って天下に雄飛した戦いとして有名な桶狭間合戦ですが、古来珍説・異説を含めさまざまな伝承があります。私はこの本を読んで目から鱗が落ちた感じです。


 今までの研究でほぼ間違いない事実として言われるものは

ゝ糎気布陣したのは桶狭間山と当時呼ばれた比高64.7mの高地だった。
⊃ヅ跳海牢饅韻覆匹擦此∪橘未ら戦いを挑み桶狭間山に攻め掛けた。
織田軍は豪雨の中を攻めたのではなく、豪雨が上がってから攻めた。
い靴し義元が討たれたのは桶狭間山ではなく、そこから山を下りた田楽狭間である。


の4つですが、お互いに矛盾しているのに気付かれましたか?

 まず、奇襲でもなく豪雨を利用もせず馬鹿正直に正面から攻めた織田軍はなぜ勝てたのでしょう?これには今川軍が弱かったからだと言う人がいます。しかし、それなら信長がこれほど追いつめられることもなかったでしょうし、駿河遠江三河を統一することもできなかったでしょう。


 作者はこれに面白い見解で謎を解明しています。の豪雨が上がってからの戦に意味があったのではないかと考察しているのです。


 信長といえば長篠合戦で代表されるように鉄砲を集中使用した武将ですが、この時も鉄砲を使用したのではないかと作者は考えています。

 もちろん今川軍にも鉄砲はあったでしょうが、鉄砲先進国の尾張では、雨に火縄を濡らさない工夫があったのではないかと推理しています。


 なるほどそれなら合点がいきます。豪雨により鉄砲の使えなかった今川軍に対し、織田軍は自分だけが存分に鉄砲を使えた。ゆえに、戦闘開始は豪雨の中ではなく上がった後だったんです。

 それに今川軍本陣が崩れ始めたのは、織田軍の一部が裏山から奇襲したため内部からの裏切りと勘違いした、いわゆる裏崩れだったのではないかと作者は指摘しています。

 
 私は合理的な解釈だと思います。数々の桶狭間合戦に関する謎に一石を投じたのではないでしょうか。歴史に興味ある皆さんも一読されることをお勧めします。