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長篠(設楽ヶ原)の合戦とオセロ

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 突然ですが、皆さんオセロというゲームはご存知ですよね?白と黒の駒で互いに相手を挟んで裏返して自分の駒にするというアレです。

 実は今朝ほど夢を見て、歴史に名高い長篠の合戦って、オセロのようなものではなかったかと思った次第です。かなり暴論なのでマジレスはしない様に(爆)。


 長篠の合戦はあまりに有名なのでご存知の方も多いと思いますが、念のため

長篠の戦い(ながしののたたかい)は、天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長徳川家康連合軍3万5,000と武田勝頼軍1万5,000との間で行われた戦い。

徳川氏に属する奥三河長篠城が武田軍に包囲され陥落寸前となったため、家康が織田軍の援軍を要請。旧暦5月21日(新暦6月29日)に長篠城西方の「設楽原(したらがはら)」あるいは「あるみ原」にて野戦が行われ、織田・徳川連合軍側の勝利に終わった。』(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より)


 で、ここからが本題。両軍の布陣図を見ると狭い地域にひしめき合っているのが分かります。これってオセロの盤面に似てないかな、と夢で考えたわけです。


 オセロゲームをした人なら分かると思いますが、4隅を取ってしまえば非常に有利です。特に隣接する2つの隅を取って端っこ一列を取ると、相手はそこを取ることができなくなります。

 長篠合戦でいうと、まず西北と西南を織田・徳川連合軍が取っていて西端一列が連合軍のものです。馬防柵と野戦築城によって武田軍の兵力では突破はほぼ不可能でした。

 そして、東南の隅を取る行為が、史実でいうところの酒井忠次の鳶の巣砦への奇襲に当たるわけです。徳川方の奥平信昌の守る長篠城への武田軍の攻撃がこの合戦の発端でした。

 信長は、この戦いを対武田戦の天王山にするつもりでした。織田信長がこの際、武田勝頼の主力軍を捕捉して粉砕しようという意図で、三万もの大軍で援軍に来たのは、このためでした。徳川軍も動員兵力いっぱいの八千をもってきていたので武田軍1万5千の倍以上の兵力です。

 武田軍も連合軍の動きに反応して、長篠城には少数の押さえだけ残して西に向かい対陣します。この段階では西一列が連合軍の駒、東一列が武田軍の駒、そして東南の隅の近くに孤立して長篠城という連合軍の駒がある状態でした。

 結果的に東南の隅を取るという行為=鳶の巣砦への奇襲は成功します。これで東北を除く3つの隅を取り、西一列と南一列を連合軍が取ったことになります。

 圧倒的有利な状態になった連合軍に対し、武田軍は撤退すれば追撃を受けるため、不利を承知で正面攻撃するしか手がなくなりました。

 結果はご存知のとおり。鉄砲三段撃ちはなかったそうですが、三千挺の鉄砲の猛烈な射撃で累代の宿将を多く討たれた武田方は壊滅的損害を受け壊走します。


 と考えれば、鉄砲の威力は大きな力にはなったと思いますが、決定的勝因は戦闘に入る前の織田・徳川連合軍の態勢作りにあったのではないでしょうか。