鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

歴史のIF 「信玄西上作戦」 もし信玄が長生きしたら~

イメージ 1

 元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じ三万余の兵力を率いて甲斐を進発します。秋山信友に三千を預け美濃口から、山県昌景に五千を預けて三河口から侵攻させ、自らは北条の援軍二千を加え二万二千を率いて遠江口から徳川家康の領土に侵攻しました。

 奥三河を席巻した山県隊と合流すると、12月22日遠州三方ヶ原で徳川家康軍一万一千を文字通り鎧袖一触します。刑部で越年すると武田勢は三河野田城に襲い掛かりました。これを2月10日に落とすとあとは織田信長との直接対決を待つばかりでした。

 しかし、武田勢はなぜか動きを止め信濃へ撤退します。これは信玄の病が悪化したためでした。信州駒場で信玄は五十三歳の波乱の生涯を閉じます。


 歴史のIFを想像することはタブーと言われています。しかしそれだけ興味深く面白いのも事実。もし信玄が病に倒れず上洛の道を進めていたらどうなったかを考えるのは、歴史ファンなら誰しもでしょう。ここは鳳山流歴史シミュレーションにお付き合いください。

 当時の両者の国力を比較して見ましょう。概算ですがまず武田から。甲斐一国二十五万石、信濃一国五十万石、西上野二十万石、駿河十七万石、これだけで百十二万石あります。これに遠江三河、飛騨、伊豆の一部を合わせ最大で百三十万石くらいでしょうか。一万石で300人動員できますから最大動員兵力4万弱。

 一方織田信長尾張、美濃、伊勢三国で百六十万石以上。これに南近江で約四十万石、山城二十七万石、摂津・河内・和泉・大和で大体六十万石、総計三百万石近い領国を有していました。兵力は最大9万~10万動員できます。

 まともにぶつかっては信玄に勝ち目はありません。そこで外交の力によって形勢逆転を図ります。浅井・朝倉に働きかけて北近江の野で織田軍主力を拘束。織田領内各地で一向一揆を扇動、将軍足利義昭もこれに呼応し山城で挙兵の動きをみせます。

 この信長包囲網の力によって、織田軍を分散させ各個撃破によって倒そうという作戦です。しかし、早くも包囲網はほころびを見せ始めました。包囲網の重要な一角である朝倉義景が信玄に無断で本国越前に撤退してしまうのです。信玄は手紙でこれを強く非難しますが、後の祭りです。

 逆に信長にとってはラッキーでした。兵力的余裕のできた信長は、もし信玄が尾張・美濃に侵攻してきたらどのように行動していたでしょうか。

 ここからIFに入りますが、信長が対武田戦に振り向けられる野戦兵力はおそらく五万余り。これは各地の敵対勢力に兵力を張り付けておかなければならないからです。鉄砲保有率が高く、当時でもおそらく2千挺ほどは少なくとも保有していた織田軍ですが、尾張・美濃の兵は弱兵で有名で、信玄の作戦能力と甲州勢の強さから見ると、野戦での勝敗は分かりません。

 だだ信長が有利な点は、自分の領土内での戦いだということです。補給は容易で、しかも傭兵である織田軍は負けてもいくらでも補充がききます。一方、武田軍は戦いに勝利したとしても、兵の補充は難しく占領地が拡大するにつれ、守備兵力を割かなければなりません。

 信玄が、信長に勝利するためには野戦において決定的な勝利をあげ、信長の威信を地に落とさなければならないでしょう。そうすれば各地の豪族が武田に寝返り有利な体勢に持っていけます。朝倉も再び出てくるでしょう。

 しかし、そんなことは信長は十分承知しているはずです。なるだけ直接対決を避け、少数の兵で武田軍の補給路を叩く作戦に出るような気がします。戦いが長引けば長引くほど織田が有利になります。しかも武田軍の後方に徳川家康を残しているため、本国甲斐との連絡を絶たれる恐れがあります。

 決戦があるとしたら、尾張か美濃でしょう。信長は武田勢の強さを知っていますので城を楯にした布陣で長期戦を想定していると思います。後の小牧長久手の合戦のような形態になるのではないでしょうか。

 慎重な信長は、けっして自分からは戦端を開かないと思います。野戦築城を完璧に施し、武田勢の攻撃には大量の鉄砲をもってあたるでしょう。

 こうなると、他の反信長勢力が決定的に勝利を挙げない限り、結局攻めあぐねた武田勢は撤退せざるを得ないと思います。戦上手の信玄の事ですから、撤退戦で大きな被害は受けないでしょうが戦略的には信玄の敗北、信長が勝利することとなります。

 そして、年月が経過すればするほど信長の優位は崩れなくなり二度と上洛のチャンスは巡ってこないでしょう。信玄ファンのかたには申し訳ないですが、私の結論は戦略的に信長の勝利となりました。