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吉野ヶ里遺跡と騎馬民族征服説

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吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。現在、国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、日本100名城に選出されている。

- フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より -

 これから書くことは私の単なる想像で、学術的裏づけはないのでマジレスしないように(笑)。

 佐賀県神崎市と吉野ヶ里町にまたがる弥生時代最大の環濠集落遺跡「吉野ヶ里」。一時は邪馬台国では?と騒がれたところですが、すくなくとも弥生時代の有力な国であったことは間違いないでしょう。

 私も興味があったので何度か訪れたのですが、驚くべきことに防御施設が貧弱なのです。あくまで忠実に復元していると仮定しての話ですが。

 これくらいの規模の環濠集落であれば大規模な戦闘に備えなければいけないはずです。しかし、私がみたところ堀はある程度広さと深さをもっているんですが、周囲に廻らされた柵が貧弱なのです。柵の近くまで登ってみたんですが、ここから外は見えません。ということは柵からの射撃ができないことになります。しかも武者走りがなく、ただ境界線としての役割しかありません。

 堀を渡り柵に近づく敵に対しては、所々に設けてある物見櫓からの射撃しかありませんが、その数は集落全体をカバーしているとは言い難い数です。(実際とは違い、イメージだけで復元したのかもしれませんが)

 一応、門は楼門で防御力は高いと思いますが、敵がここを攻める場合、防御力の弱い柵側から攻めるでしょう。どうもこの時代の戦いの規模は数百名程度の小規模な戦だったと想像できます。それならこの程度の防御力でも充分だったのでしょう。

 大規模な戦は、補給なくしては成り立ちません。現地調達には限度があります。その輸送手段としての船や馬匹、これなくしては長期の対陣もできないでしょう。
 吉野ヶ里遺跡の全盛期には馬はいなかったと想定できます。やはり半島から渡ってきた集団によりもたらされたのでしょう。

 話は変わりますが、日本の史学者から騎馬遊牧民が来なかった証拠として去勢の技術がなく、宦官が存在しないという事が挙げらていますが、農耕民族である中国やエジプト、メソポタミアにも宦官はいるんですが、どう説明するんでしょうか?

 私は朝鮮半島にいた扶余族が、日本に渡って征服王朝を建てたと想像しているんですが、純粋な騎馬民族というより満州女真)族やトルコ族のように、半農半牧の民族だったのではないかと考えます。
 それならば農業にも理解があるし、すんなり支配体制が築けます。もちろん軍の主力は騎兵なので、その意味では騎馬民族なのでしょう。

 馬の伝来によって輸送手段を得たために、戦争が大規模化し大和朝廷による日本征服事業が推進されたのではないでしょうか?扶余族=天孫族大和朝廷という想像をしています。

 ただ邪馬台国は九州に存在したという説を支持しているので、そこから想像の翼を広げれば邪馬台国の後裔である九州王朝を制服した天孫族のうち、その主力か一部か不明ですが瀬戸内海を通って畿内に上陸し、大和の土着勢力【長髄彦(ながすねひこ)】を滅ぼして大和朝廷になったか、あるいは大和にも早くから王権が成立し、扶余族九州王朝との戦争に敗北した事により、乗っ取られた(邪馬台国東遷説?)のではないかと想像しています。

 邪馬台国畿内にあって、そのまま大和朝廷になったとは考えにくいのです。九州にあったであろう狗奴国に対し畿内から九州まで勢力を持った国が、あれほど苦戦するはずがありませんから。騎馬という強力な軍事力を持った天孫族が、征服した大和盆地を気に入り、その首都としたのではないかと思います。九州だけでなく日本列島全土を支配するにはその方が都合が良かったのでしょう。本拠九州との連絡は瀬戸内海の水運があり、容易だったでしょうから。

 九州も、天孫族は支配階級として乗っかっているだけで、土着の勢力は植民地として支配されていたのかもしれません。と言いますのは後に起こった筑紫君磐井の乱は、搾取されていた土着勢力による最後の抵抗と考えられるからです。さらに想像すると磐井こそ邪馬台国の後裔である九州王朝の正当な後継者だったのかもしれません。あるいは狗奴国の後継者だったか?

 吉野ヶ里の高台に立ったとき、悠久の歴史のロマンに思いを馳せるのも一興です。