鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高

 誰も興味ないと思いますが、私は一つのことに興味を持つとその関連情報を調べたくなるのでせっかくなので備忘録として記します。

 黒水城(カラ・ホト)の記事で、甘粛省青海省の境にそびえる祁連(きれん)山脈に源流を発した弱水は甘粛回廊部を北西に流れた後、酒泉あたりで北東に転じゴビ砂漠の内陸湖である居延海近くで砂漠に飲み込まれ消えると書きました。昔は居延海がかなり大きく、弱水も直接居延海に注いでいたそうです。

 地図をパッと見ただけだと、弱水は居延海あたりから流れ出し甘粛回廊に向けて南流するようなイメージですが実際は逆でした。では甘粛回廊とゴビ砂漠モンゴル高原の標高はどうなっているのか調べてみました。

 甘粛回廊(河西回廊)のある甘粛省は平均標高2260mもあります。しかしこれは省域に祁連山脈があるためで、祁連山脈は4000m級の高山です。回廊自体の平均標高は分からなかったんですが、各都市の標高を調べると甘粛省省都蘭州で1424m、武威市で1440m、張掖市で1820m、酒泉市で1483mでした。回廊部は大体平均標高1400m前後はありそうです。

 ついでゴビ砂漠を調べたんですが、西高東低で西部の平均標高は1200m、東部に下るにつれ低くなって900mほどになります。ゴビ砂漠北モンゴル高原の平均標高は1580mですから、祁連山脈から見ると甘粛回廊は山脈に連なる裾野の高原地帯でそこからゴビ砂漠に向かって平均で200mほど下ります。そして居延海あたりが最低標高で、北に行くにつれ再び標高が上がりだしモンゴル高原で1500m級に達するようです。

 甘粛回廊は幅30㎞くらいの狭い土地でシナ本土と西域をつなぐ交易路(シルクロード)ですが、ゴビ砂漠よりは高い位置にあったんですね。意外でした。

 ついでに言うと、ゴビ砂漠サハラ砂漠のように砂丘が永遠に続く不毛地帯のようなイメージでしたが、かつての居延海のように湿地もあればオアシスもあり、全体的に言えば荒野という表現が正しいのかもしれません。もちろん純粋な砂丘もありますが。そして、内モンゴル自治区に点在する都市はこのようなオアシスに発展していったのでしょう。

 実際灌漑すれば農耕に適した土地もあるようで、内モンゴル自治区では元からの住民である400万人のモンゴル族に対し後から入ってきた漢族が1900万人もいるそうです。実はウイグルチベットでも同じような状況で漢族が多数派を占めます。明らかな人口侵略ですね。

 このような漢族の人口侵略は清代から始まったそうで、現地のモンゴル人、ウイグル人はさぞかし不快だったことでしょう。20世紀にはいるとチベットにまで漢族の人口侵略の魔の手が伸びます。遊牧民は大人口を養えないのでどうしても農耕民族に人口の面で負けますからね。共産党政権になってから漢族の移民は拍車がかかったそうですから、意図的に民族浄化を図ったのかもしれません。

 元朝が明に滅ぼされた後、残党の北元が内モンゴルにとどまったのも人口的、経済的に明と対抗できると思ったからでしょう。民族の故郷であるモンゴル高原モンゴル国の人口は328万人しかおらず、内モンゴル自治区のモンゴル人のほうが400万人で多いですからね。それでも現在は少数派になっているんですから悲しい話です。

 こういうことを言うと非難する人もいそうですが、大東亜戦争中に日本が作った傀儡国家徳王の蒙古国は民族的、政治的には正しい選択だったのかもしれません。結局日本の敗戦で崩壊し、徳王も最初モンゴル人民共和国に亡命しましたがシナ共産党政権に引き渡され逮捕されました。モンゴル共産党にとっては旧世紀の遺物である黄金氏族(チンギス汗の子孫)の徳王は利用価値がなかったのかもしれません。同族に裏切られた徳王は哀れですね。世が世ならモンゴルの王(ハーン?)になってもおかしくないのに。

 その後の徳王は、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀と似ていました。徹底的な思想教育を受け民間人になって1966年病死します。話が甘粛回廊からかなり脱線しましたが、これが私のスタイルです(笑)。