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日本は本土決戦でどこまで戦えたか?

 最近軍事に関して考えることが多いのですが、大東亜戦争末期日本は本土決戦でどこまで戦えたか興味を覚えました。アメリカを中心とする連合軍は、日本本土進攻作戦『ダウンフォール作戦』を計画していました。これは1945年11月に計画された九州上陸を目的とする『オリンピック作戦』、1946年春に予定された日本の中枢部関東地方を攻略するための『コロネット作戦』から成ります。

 オリンピック作戦に関しては以前書いたので過去記事『本土決戦IF 帝国陸軍は米上陸軍に痛撃を与えられるか?』をご参照下さい。ただし普通に戦ったらまず勝ち目がないので理想的展開をした場合のIFを想定しました。それですら米軍に痛撃を与えるものの最終的には押し切られるという結論でした。

 今回考察するのは関東地方侵攻作戦である『コロネット作戦』です。IFは一切なし。という事で身も蓋もない結論になるのは明らかですが、我慢してお付き合いください。

 コロネット作戦は海上予備も含めたら陸軍だけで25個師団が参加する大規模なものでした。ちなみにオリンピック作戦は14個師団、ノルマンディー上陸作戦時の米軍が22個師団(そのほか英軍などを合わせて39個師団)参加ですから、それに匹敵する大規模上陸作戦だったことが分かります。コロネット作戦は相模湾から侵攻する第8軍(11個師団基幹)、九十九里浜から上陸する第1軍(9個師団基幹)が先鋒でした。

 これに対し第一線で防御に当たるわが軍は、相模湾が第53軍(3個師団基幹)、九十九里浜防衛が第52軍(4個師団基幹)担当です。しかし精鋭ならともかく調べてみると絶望的な戦力でした。

 

 第52軍から見てみましょう。

◇第52軍

 近衛第3師団(近衛第2師団の留守部隊を基幹に編成。装備は劣悪で戦闘力は下の上)

 第147師団(昭和20年第一次兵備で動員された貼り付け師団。戦闘力は下の下)

 第152師団(同上)

 第234師団(第三次兵備で動員された貼り付け師団、戦闘力は下の下)

 

 次に第53軍

◇第53軍

 第84師団(昭和19年、第53師団の留守部隊を基幹に編成。戦闘力は中の下)

 第140師団(昭和20年第一次兵備で動員された貼り付け師団。戦闘力は下の下)

 第316師団(第三次兵備で動員された貼り付け師団、戦闘力は下の下)

 

と、絶望的な戦力でした。一応第53軍の戦略予備に機動打撃師団の第201師団、第52軍の戦略予備には第93師団が控えていましたが、これも戦闘力はせいぜい中の中くらいで、九州のように精鋭の第25師団のような歴戦の精鋭師団は皆無でした。相模湾、九十久里浜どちらにも援軍に行ける位置である栃木県佐野に虎の子の戦車第1師団もあることはありましたが、2個機甲師団を含む完全充足の米上陸軍相手に太刀打ちできなかったと思います。その前に、ノルマンディーのドイツ機甲部隊のように戦場に到達する前に連合軍の航空攻撃でぼろぼろになった可能性が高いです。

 房総方面は低いながら山塊があるので、沖縄や硫黄島のようにしっかり陣地構築していればある程度は抵抗できたかもしれませんが、相模湾の方は米機甲部隊の上陸を許したら終わりでしょうね。東京まで一気に突っ切られる可能性が高いです。おそらく当時の陸軍の作戦としては松代大本営まで米軍が到達する時間をできるだけ遅らせるのが目標だったと思いますが、そこに住んでいる住民にとってはたまったものではありませんでした。今のウクライナのように一般市民の犠牲者がどれほど出るか恐ろしくて想像もできません。

 実態を調べれば調べるほど、絶望的な結果にしかなりません。本土決戦にならなくて本当に良かったと個人的には思います。