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肥後古代史Ⅲ 塚原遺跡

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 玉名市教育委員会文化課は8日、塚原遺跡(同市岱明町野口塚原)で、弥生時代中後期(1~3世紀)の環濠集落跡と大型の竪穴建物跡などを発掘したと発表した。 古い海岸線のそばで、近くには装飾品のゴホウラ貝製貝輪が出土した「年の神遺跡」(支石墓)もあり、海上交易の中継拠点の集落とみている。 菊池川下流域の環濠集落跡は初めての発見という。
 出土したのは、住居・建物跡23軒分やV字形の溝(幅約5m、深さ約2・2m)、甕棺墓4基など。 溝は形状や位置から集落を守る機能を持ち、一帯が環濠集落だったとみられる。
 住居跡は円形や四角形で、直径11mの円形の竪穴建物跡は、弥生中後期としては九州最大級。
 弥生遺跡の南側からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、古墳時代中期(5世紀)北部九州に多い石棺系石室を持つ円墳、南北朝時代(14世紀後半)の溝や建物跡なども見つかった。
一般公開は10日(土)午前10時-午後4時に行われる。 午前10時と午後1時に説明がある。
[参考:熊本日日新聞西日本新聞、読売新聞、朝日新聞]

 

 最近、古代史にはまっていますが我が故郷玉名にも環濠集落遺跡がありました。遺跡の規模は9万平方メートルですから9ヘクタール。吉野ヶ里遺跡や方保田東原遺跡に比べると小規模ですが、3キロメートルくらいの近場にあったことに驚いています。そういえば国道のバイパス工事をしているときに遺跡らしきものが見つかったと聞いて見に行った記憶があります。ところが調査が終わると埋め戻され工事が再開してしまいました。私は利便性より歴史的価値を取るべきだと思いますがね。吉野ヶ里遺跡はそうしましたよ。

 近くに景行天皇所縁の貴船神社もあるくらいですから、このあたりは古代から開けていたんでしょうね。玉名市にも大坊古墳や永安寺東古墳など過去記事で書いた茂賀の浦周辺の古墳群と共通した装飾古墳がありますから、同じ文化圏に属したのかもしれません。狗奴国と推定される装飾古墳など共通の文化をもった熊本県を中心に宮崎県や有明海を隔てた長崎県の一部まで広がった勢力が存在したと思っています。そしてその首都と推定されるのは、前記事で書いた山鹿市の方保田東原遺跡の環濠集落。

 方保田東原遺跡は幅8メートルを超える大溝、百を超える住居跡、鉄器を製造した遺構などもあるそうです。そればかりか近畿や山陰地方など西日本各地から持ち込まれた土器も見つかっていますから、想像以上に大規模な交易をしていたことになります。前に書いた通り鉄器は農機具にもなれば武器にもなり、方保田東原の環濠集落は強力な経済力と軍事力を持っていたのでしょう。

 塚原遺跡の環濠集落が方保田東原の『くに』の勢力圏だったとすれば、海上交易ルートの貿易港の役目を果たしていたのかもしれません。魏志倭人伝で狗奴国は邪馬台国の南にあり強力な国だったと書かれていますから、方保田東原の環濠集落を中心とし九州中部一帯に勢力圏を持った『くに』は狗奴国の可能性が高いと思っています。

 私は邪馬台国は北部九州一帯を支配した連合国家だと考えていますから、それに匹敵する規模だとすると狗奴国の強大さが分かります。学界で有力な邪馬台国畿内説、邪馬台国四国説だと魏志倭人伝の狗奴国の記述に矛盾するんですよ。ただ最終的に内乱などで北部九州の邪馬台国は衰退し、一部か大部分か知りませんが東遷し最終的には大和盆地に落ち着いたと見ています。

 古代史は分からない事ばかりですが、遺跡が見つかって解明が進めば良いですね。