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「ローマは一日にして成らず」 建国神話とその実態

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 塩野七生さんの代表作『ローマ人の物語』が私の愛読書の一つであることは以前紹介したことがあります。不朽の名作である事は間違いないのですが、あまりも巻を重ねすぎて最初の頃のローマはどうだったのか、すっかり忘れていました。
 ふと興味を憶え、モムゼンの「ローマの歴史」その他関連書籍を読み返してみると、新たな発見もあり楽しいひと時を過ごしました。少し長くなるかもしれませんが、ご紹介しようと思います。

 伝説ではトロイア戦争から逃れてきた将軍アエネイアスが、イタリア半島中部にあったラティウム王国に保護され王の娘と結婚して王になります。それに反発する周辺諸国と戦いアエネイアスは戦死しました。後を継いだ息子のアスカニウスは、なんとか敵を撃退しティベル河畔にあったラティウムから南東のアルバ・ロンガに遷都し小国家を築きます。
 12代の王プロカスには二人の息子がいました。ヌミトルとアムリウス。王位を継いだヌミトルに対して反乱を起こしたアムリウスは、ヌミトルを追放して王位を簒奪します。ヌミトルの娘の子、すなわち王の孫にあたる双子の兄弟がいました。ロムルスとレムス。まだ幼児であった彼らを、アムリウスは将来の禍根を断つためティベル河に流しました。

 双子の兄弟は奇跡的に狼に拾われて育てられます。その後羊飼いに助けられた兄弟は、自分たちの出生の秘密を知りました。力を合わせて大叔父にあたるアムリウスを倒し、祖父ヌミトルを王位に復します。
 兄弟は、新たに自分たちが育ったティベル河畔のパラティヌスの丘に都市を築きました。しかし兄弟の間にいさかいが起きレムスは殺されます。こうしてロムルスが一人残り、彼の名をとってこの都市はローマと名付けられました。

 建国の時期は伝説では紀元前8世紀の頃とされますが、ローマに最初の集落が当時存在した事は確認されています。ただロムルスが実在したかどうかは疑問視する研究者が多いようです。ある研究者はロムルスという名前は、ラテン起源ではなくエトルリア起源だとも言っています。
 モムゼンの「ローマの歴史機廚任蓮都市ローマはラテン人とエトルリア人の勢力の境界線に位置していたと指摘しています。おそらく辺境であったローマにはラテン人とエトルリア人が混住していたと想像されます。有体に言えば「両民族のあぶれ者たちが辺境にあつまり都市(当時は小さな集落に過ぎませんが)を建設した」というのが実情ではないでしょうか?

 これも伝説ですが、建国当初のローマは男ばかりで女性がいなかったため、周辺のサビニ人の女性を強奪し、戦争に発展したというのがあります。傍証になりはしませんか。
 また、ローマは移民を多く受け入れその移民の指導者がローマ貴族として迎え入れられたそうです。こうしてローマは発展し7代にわたって王が支配します。そのうち3名がエトルリア出身と言われています。エトルリアに支配されていたとも考えられますが、当初から両民族がローマに住んでいたとすると自然です。

 紀元前509年、ローマ最後の王タルクィニウスは暴政を布いたために市民の反発を買い追放されました。以後市民の代表者である元老院と、市民から選ばれた執政官が統治する共和政ローマが始まります。
 新生ローマは、追放された王タルクィニウスがエトルリア諸都市をそそのかして起こした戦争を耐え抜き、後の世界帝国への第一歩を踏みだすことになります。