鳳山雑記帳はてなブログ

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第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争) - イスラエル不敗神話の崩壊 - (後編)

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(シナイ戦線)
 イスラエル軍で運河正面を担当していたのは、マンドラー少将の第252機甲師団でした。反撃に向かったイスラエル軍戦車は、砂丘に隠れていたエジプト兵のRPG-7やサガーなどのソ連対戦車ミサイルの近接射撃を受けて次々と炎上します。翌7日までに師団保有戦車300両のうち、半数近くが砂漠に残骸をさらしました。上空でもイスラエル空軍機は、ソ連製SA2、SA3、SA6、SA7などの地対空ミサイルとZSU23-4自走対空機関砲を組み合わせた防空コンプレックスの餌食となりました。
 イスラエル空軍は、ついにシナイ上空への自軍機の飛行を禁じました。制空権を奪ったエジプト軍は進撃を続け、10月8日、イスラエル第190戦車旅団を撃破します。続々と入ってくる敗北の知らせをうけた国防相ダヤンは、即時反撃の希望を棄て、全軍に防衛陣地の構築を命じました。この時点でシナイ半島に展開するイスラエル軍戦車は90両をきっていたといいます。開戦から3日間でイスラエル軍の損害は戦車400両以上、死傷者3000人以上に上っていました。

ゴラン高原戦線)
 シリア軍は、イスラエル軍の構築した対戦車壕に苦戦しながらも、4日間の激戦でほぼイスラエル軍戦車200両を破壊、ヨルダン川にかかるブノット・ヤコブ橋の手前3キロの地点まで進出しました。この橋はゴラン高原イスラエル本土を結ぶ交通の要衝でここを奪われると、ゴラン高原北部に展開するイスラエル軍は総崩れになります。あわてたイスラエル軍は、2個機甲師団を増援としてゴラン高原に派遣しました。ヤコブ橋をめぐって大規模な戦車戦が巻き起こります。両翼から包囲する形となったイスラエル軍は、信頼性の高いアメリカ製戦車の精密射撃で、次々とシリア軍のソ連製T62を撃破していきました。10月10日正午までに停戦ラインの内側からシリア軍戦車をほとんど撃破します。翌11日にはゴラン高原においてイスラエル軍の大反攻作戦が開始されシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程圏内に納める地点まで進出しました。
 敵首都を占領することは容易でしたが、そうなるとソ連の本格的軍事介入を招く危険性があり、イスラエル軍はそこで停止、防御陣地を構築します。

(シナイ戦線、ストロングハート作戦)
 第143機甲師団を率いてシナイ戦線に到着したシャロン少将は、スエズ運河を逆に渡河してカイロに圧力をかける「ストロングハート作戦」を具申しました。これは大きな賭けでしたが、イスラエル参謀本部はついに作戦を許可します。
 10月14日、シナイ戦線でエジプト軍の大攻勢があり、両軍合わせて2000両もの戦車戦が巻き起こります。このとき、イスラエル軍は、アメリカ製のTOW対戦車ミサイルを受領していました。緒戦とは逆にTOW対戦車ミサイルが猛威をふるいエジプト軍戦車264両を撃破します。空軍も、エジプト軍防空網の盲点を発見し制空権を奪い返しつつありました。
 「ストロングハート作戦」はついに発動されました。イスラエル軍機甲部隊は、敗走するエジプト軍を追いかける形で、大ビター湖北岸で渡河、第162機甲師団は左に旋回してスエズを脅かします。これで運河東岸に進出していたエジプト第3軍を背後から遮断しました。18日にはエジプトの首都カイロも指呼の間に迎えます。

(停戦)
 このような戦局をみてあわてだしたのはクレムリンです。このまま戦争が続けばアラブ側の大敗北は必至でした。ブレジネフ書記長は、急ぎアメリカのキッシンジャー国務長官をモスクワに招き、停戦についての原則を話し合う一方、サダトとアサドに早期の停戦を受け入れるよう説得します。
 アメリカも、イスラエルに圧力をかけ停戦に合意させます。ようやく反撃体勢にはいっていたイスラエルでしたが、損害も大きく、これに合意しました。10月22日、国連安保理で停戦決議が採択され戦争はようやく終結にむかいます。

(結果)
 イスラエルはこの戦争の戦訓から、防御力重視で人命を最優先にしたメルカバ戦車を開発します。この戦争でイスラエルに大損害をあたえ、ある程度の成果を得たサダトは、単独和平の道を探ります。
 1977年、ベギン内閣がイスラエルに成立すると、サダトは急速に接近します。アラブ首脳として初めて公式にイスラエルエルサレムを訪問し首脳会談をおこないました。1978年9月、米国キャンプ・デービッドで米国を仲介として、ついに和平の合意、シナイ半島返還を実現します。
 これには、リビア、シリアなどが猛反発、エジプトをアラブの裏切り者と非難しました。それが1981年のサダト暗殺に繋がるのです。