鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

春秋戦国史Ⅴ  楚の荘王

イメージ 1

 楚のルーツが漢民族でない事はほぼ明らかになっていますが、タイ族説、苗(ミャオ)族説、東夷説がありはっきりしません。一説では長江文明の生き残りではないかとも云われます。現在でも雲南省タイ族と苗族は隣接して住んでおり古代には長江中流域も似たような状態であったろうと想像できます。

 楚が周の封建体制下に組み込まれ子爵を授けられた事はすでに書きました。ところが楚は実力で近隣の周の諸侯国を併呑し王を自称して周に挑戦します。楚は24代成王の時代BC632年城濮の戦いで晋の文公に敗れ北進が一時頓挫しました。成王の孫に当たる26代荘王(名は侶、在位BC614年~BC591年)が国を受け継いだ時の楚はやや衰退期にはいっていたのです。

 荘王は即位して3年間、遊興に耽り政治を全く顧みませんでした。国内に訓令し、「あえて国王を諌める者は死罪に処す」と布告します。王が政治をしないのですから国内は弛緩し冗官汚吏がはびこりました。これを憂いた臣下の伍挙は王を諌めようと宮中に入ります。その時荘王は左に鄭姫を抱き右に越女を侍らせ酒宴の最中でした。

 伍挙は構わず荘王の前に出て
「鳥が丘の上に居ります。3年飛びもしなければ鳴きもしません。これはどのような鳥でしょう?」と謎かけしました。それに対し荘王は
「3年鳴かないのはひとたび鳴けば人を驚かす。3年飛ばないのはひとたび飛び立てば天に昇るであろう。伍挙よ、お前の言いたい事は分かっておる。退出しておれ」
と答えました。これが『三年鳴かず飛ばず』の故事の由来です。しかしこの後も荘王の振る舞いは変わりませんでした。

 ついに大夫の蘇従(そしょう)がたまりかね、荘王に直訴します。荘王は怒り「お前は訓令を知らないのか!」と浴びせます。しかし蘇従は「わが君が明を開かれるなら、私はどうなってもかまいません」と真剣に訴えました。じっとそれを見ていた荘王は、笑い出しました。
 「蘇従よ、よくぞ言った。そなたこそ真の忠臣である」その後、荘王は廟堂に向かい3年間不正を働いていた者を数百人誅殺し、有能な者を数百人推挙します。もちろん伍挙も蘇従もこの中に含まれ重職を授けられました。

 こうして国内の態勢を固めた荘王はBC606年洛邑南郊の山岳地帯に居住する異民族陸渾(りくこん)の戎を討ちます。戎というくらいですからチベット系の西方民族だろうと思われますが、このように支那大陸では都市国家とその周辺だけが漢民族の領域で、その周辺には異民族が雑居していたことがうかがわれます。周は楚軍がそのまま洛邑に攻め込むのではないかと恐れ、様子を探るため大夫の王孫満を使者として荘王をねぎらわせました。この時荘王は王孫満に
「周の朝廷には九鼎という秘宝があるそうだが、その重さはどれくらいかな?」と問いました。これは楚軍はいつでも周に取って代われるぞという寓意です。これに対し王孫満は
「世を治めるのは徳によってです。周の徳は衰えたりとはいえ天命が改まったわけではありません。九鼎は夏から商、そして周へ受け継がれた天命の象徴です。王がいかに盛徳であろうと、鼎の軽重を問う時ではありますまい」と答えました。これが有名な『鼎の軽重を問う』という故事の由来です。

 荘王は、王孫満の毅然たる態度を見ておとなしく軍を引きました。ただ荘王の北進は止まらず内紛に乗じて陳を滅ぼしBC597年には城濮の戦いの後楚の属国を脱し晋に服属していた鄭を討って再び楚の属国に戻します。降伏の直前、鄭は宗主国の晋に援軍を求めていました。晋はこれを受け正卿(宰相、軍の序列では1位の中軍将)の荀林父を総大将とする大軍を南下させます。鄭がすでに降伏していたので撤退論も出ていたのですが、主戦派が勝ち晋軍は楚軍と邲(ひつ、河南省鄭州市近郊)で対峙しました。

 総大将の荀林父も撤退論、上軍の将(晋軍の序列第3位)の士会も撤退すべきだと考えていましたが、中軍の佐(序列第2位)の先穀が強硬に主戦論を主張し独断で兵を動かしたため、晋軍は仕方なく戦いに突入します。このような状況で勝てるはずがありません。事実、邲の戦いは楚軍の圧勝となりました。

 本来であれば覇者というのは『周王室を助け諸侯を率いて楚を討つ者』を指しますが、しだいに諸侯中最大の実力者という意味合いに変わってきていました。楚の荘王は事実上の覇者となったのです。鄭や宋をはじめ中原の有力諸侯は晋を離れ楚に服属します。荘王はBC591年栄光のうちにその生涯を終えました。



 再び楚に覇権を奪われた晋はどのような反撃を行うのでしょうか?それには一人の美女が大きく関わることとなります。次回『妖女夏姫』に御期待下さい。