

天智天皇の同母弟大海人皇子は、そんな兄の姿を見て次は自分の番だと戦々恐々としていたそうです。しかし天皇もさすがに血を分けた弟まで殺そうとは考えていませんでした。それどころか最初は嫡男がいなかったため大海人皇子を太子(皇太弟)にまでしたのです。
彼を味方に引き付けておくため、天智天皇は自分の娘を后として与えます。鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)すなわち後の持統女帝です。
叔父と姪の結婚は現代の感覚から見ると異常にみえますが、当時は血の高貴さを保つためにしばしばみられました。二人の間には草壁皇子(くさかべのみこ)が生まれます。一方天智天皇の別の娘(大田皇女)からは大津皇子(おおつのみこ)が生まれました。
「朕の病気は重い。お前に皇位を譲るから受けてくれないか?」
と婉曲に断りました。
そればかりか大海人皇子は身の危険を感じ、帰宅するよりも早く髪をおろし出家します。そして大和盆地の南山深い吉野に隠棲するのです。
後継には天智の願い通り、愛息大友皇子がなりました。ここで大友皇子に関して即位して天皇になったという説と即位式を挙げる前に壬申の乱で滅ぼされたので天皇になっていないという説がありますが、明治三年にやはり実質的な天皇であったとされ弘文天皇と諡(おくりな)されています。本稿では大友皇子として書き進めます。
邪魔者は早いうちに除くのが良いとばかり、吉野に討手が差し向けられました。ところが大海人皇子に心を寄せる者も多く急報は吉野側にまもなくもたらされます。
大海人皇子側は急ぎ善後策を協議しますが、東国へ脱出し再起を図るのが良いと決します。大海人皇子一行は吉野から大和盆地南の山地を抜け伊賀を北上、伊勢に脱出しました。この間何度も近江朝廷側の討手と戦うという危機の連続でした。
ところが地方豪族の間には大海人皇子に心を寄せる者が多く、大海人皇子の使者を受けると続々と味方に付き始めました。地方の兵といっても兵力を出すのは地方豪族たちです。これらが大海人皇子側に付いたことで追討軍は瓦解、逆に大海人皇子の兵力となりました。天智天皇の律令専制体制で権力を奪われた地方豪族の不満が根強かったためともいわれます。それが大海人皇子側に地方豪族が雪崩をうった原因の一つでしょう。
一方、近江朝廷側の戦備は遅れます。吉備や筑紫にまで使者を送り募兵を命じますが、筑紫大宰栗隈王(くりくまのきみ)は大海人皇子に同情的でこれを拒否、吉備に至っては国司当麻公広島(たぎまのきみひろしま)が大海人皇子側だと分かり使者に殺されるという顛末でした。
大海人皇子軍は、兵力を二手に分けます。不破の関から直接近江を衝く主力軍は村国男依が率い、伊勢・伊賀路から大和に入る第二軍は紀臣阿閉麻呂(きのおみあべまろ)が大将となりました。これは大和で大海人皇子側に立って挙兵した大伴吹負(おおとものふけい)を援けるためです。
近江朝廷側は、軍を二手に分けなければなりませんでした。大和盆地の敵にも対処する必要があったためです。近江軍は奮戦し大和の戦闘で大伴軍を破りました。ところが主戦場である近江では大海人軍に敗れ敗走します。近江朝廷軍は瀬田を最後の防衛線にしますが、古来瀬田を守りきった者はいません。この時も激戦の末突破を許しました。672年7月22日のことです。
同じころ大和でも第二軍の援軍が間に合い大海人軍が優勢になりました。
古代日本を揺るがした壬申の乱はわずか一か月あまりで集結します。大海人皇子は寛大な戦後処理を行いました。死罪になったのは右大臣中臣金(なかとみのこがね)だけ。蘇我果安(そがのはたやす)は近江の戦闘で戦死していましたから、他の大臣たちは流罪で済みました。
大海人皇子は天武天皇と諡されました。天武天皇は兄天智天皇の律令体制を継承し確立した天皇といっても良いでしょう。一方、壬申の乱で地方豪族の力に助けられたことから中央政界にこれら地方出身者が登用され始めます。奈良時代に吉備氏や毛野氏が高官として登場するのもこのためです。
天武天皇の治世は、大和中心から全国規模の統治体制に発展した時代だったと言えるかもしれません。