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飛鳥の戦乱Ⅴ(完結編)  壬申の乱

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 古代日本の英雄、天智天皇は自分の地位を守り抜くため多くの皇族や功臣を粛清し続けました。皇位を脅かす可能性があれば無実の者でも平気で切ったのです。
 
 天智天皇の同母弟大海人皇子は、そんな兄の姿を見て次は自分の番だと戦々恐々としていたそうです。しかし天皇もさすがに血を分けた弟まで殺そうとは考えていませんでした。それどころか最初は嫡男がいなかったため大海人皇子を太子(皇太弟)にまでしたのです。
 
 彼を味方に引き付けておくため、天智天皇は自分の娘を后として与えます。鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)すなわち後の持統女帝です。
 
 
 叔父と姪の結婚は現代の感覚から見ると異常にみえますが、当時は血の高貴さを保つためにしばしばみられました。二人の間には草壁皇子(くさかべのみこ)が生まれます。一方天智天皇の別の娘(大田皇女)からは大津皇子(おおつのみこ)が生まれました。
 
 天智天皇大海人皇子の蜜月時代は、天智天皇の嫡男大友皇子が成長してきたことから微妙な関係になってきます。天智天皇は、なんとかして息子に皇位を継がせたいと考えだしたのです。
 
 大友皇子が父天智天皇とは似ても似つかぬ詩歌を愛し文学的才能に秀でた秀才だったことも溺愛の対象だったのでしょう。聡明な大海人皇子は、兄の変貌ぶりを冷静に観察し身を慎み失敗を避けるようになりました。
 
 
 そんなある日、史書では671年10月17日とつたえられますが天智天皇は明日をも知れぬ重病を7月からずっと患っておりついに弟大海人皇子を病床に招きました。
 
 「朕の病気は重い。お前に皇位を譲るから受けてくれないか?」
この天智天皇の申し出に大海人皇子は迷うことなく
「兄上、何を弱気な事を仰います。皇位は倭姫皇后にお譲りなさいませ。政治は大友皇子にお任せください。私は大友皇子を補佐いたしましょう」
と婉曲に断りました。
 
 
 もしこの時大海人皇子天智天皇の申し出を受けていたらどうでしょう?天皇の性格からして後顧の憂いを断つためにでっち上げの謀反の罪を着せて処刑していた可能性が高いと思います。
 
 
 そればかりか大海人皇子は身の危険を感じ、帰宅するよりも早く髪をおろし出家します。そして大和盆地の南山深い吉野に隠棲するのです。
 
 
 大海人皇子天皇の討手を恐れ、ひたすら慎ましく暮らします。というのも皇位継承のライバルだった古人大兄皇子は同じく出家し僻地に逃れながら天智天皇の討手に殺されていたからです。
 
 
 大海人皇子側は警戒を怠りませんでした。672年1月7日一代の英傑天智天皇は病床に着いたままついに崩御します。享年46歳。
 
 後継には天智の願い通り、愛息大友皇子がなりました。ここで大友皇子に関して即位して天皇になったという説と即位式を挙げる前に壬申の乱で滅ぼされたので天皇になっていないという説がありますが、明治三年にやはり実質的な天皇であったとされ弘文天皇と諡(おくりな)されています。本稿では大友皇子として書き進めます。
 
 
 大友皇子側は、朝廷内の空気がいまだ大海人皇子に同情的な事に警戒します。野心家が皇子を担ぎ出したら憂慮すべき事態に発展するからです。
 
 邪魔者は早いうちに除くのが良いとばかり、吉野に討手が差し向けられました。ところが大海人皇子に心を寄せる者も多く急報は吉野側にまもなくもたらされます。
 
 
 大海人皇子側は急ぎ善後策を協議しますが、東国へ脱出し再起を図るのが良いと決します。大海人皇子一行は吉野から大和盆地南の山地を抜け伊賀を北上、伊勢に脱出しました。この間何度も近江朝廷側の討手と戦うという危機の連続でした。
 
 
 大海人皇子が東国に脱出したらしいという報告が入ると、近江朝廷側は美濃や尾張国司に兵を集め大海人皇子を討てと命じます。この時集まった軍兵は実に二万ともいわれます。
 
 
 ところが地方豪族の間には大海人皇子に心を寄せる者が多く、大海人皇子の使者を受けると続々と味方に付き始めました。地方の兵といっても兵力を出すのは地方豪族たちです。これらが大海人皇子側に付いたことで追討軍は瓦解、逆に大海人皇子の兵力となりました。天智天皇律令専制体制で権力を奪われた地方豪族の不満が根強かったためともいわれます。それが大海人皇子側に地方豪族が雪崩をうった原因の一つでしょう。
 
 
 さらに尾張国司小子部連や美濃の豪族多品治(おおのほんじ)らも大海人皇子側に投じ不破の関を閉じて近江朝廷と対決の姿勢を示しました。
 
 
 一方、近江朝廷側の戦備は遅れます。吉備や筑紫にまで使者を送り募兵を命じますが、筑紫大宰栗隈王(くりくまのきみ)は大海人皇子に同情的でこれを拒否、吉備に至っては国司当麻公広島(たぎまのきみひろしま)が大海人皇子側だと分かり使者に殺されるという顛末でした。
 
 
 それでも数万ともいわれる兵力が大津京に集結します。両軍はともにに数万規模、壬申の乱が古代最大の内乱だといわれる所以です。
 
 
 大海人皇子軍は、兵力を二手に分けます。不破の関から直接近江を衝く主力軍は村国男依が率い、伊勢・伊賀路から大和に入る第二軍は紀臣阿閉麻呂(きのおみあべまろ)が大将となりました。これは大和で大海人皇子側に立って挙兵した大伴吹負(おおとものふけい)を援けるためです。
 
 
 近江朝廷側は、軍を二手に分けなければなりませんでした。大和盆地の敵にも対処する必要があったためです。近江軍は奮戦し大和の戦闘で大伴軍を破りました。ところが主戦場である近江では大海人軍に敗れ敗走します。近江朝廷軍は瀬田を最後の防衛線にしますが、古来瀬田を守りきった者はいません。この時も激戦の末突破を許しました。672年7月22日のことです。
 
 同じころ大和でも第二軍の援軍が間に合い大海人軍が優勢になりました。
 
 
 そして翌23日、大海人軍は敗走する朝廷軍を追ってついに大津京になだれ込みました。炎上する宮廷で大友皇子は自害します。わずか25年の生涯でした。
 
 
 古代日本を揺るがした壬申の乱はわずか一か月あまりで集結します。大海人皇子は寛大な戦後処理を行いました。死罪になったのは右大臣中臣金(なかとみのこがね)だけ。蘇我果安(そがのはたやす)は近江の戦闘で戦死していましたから、他の大臣たちは流罪で済みました。
 
 
 戦後処理を終えた大海人皇子は673年2月大和に入り即位します。都は再び飛鳥に戻されました。すなわち飛鳥浄御原宮です。
 
 
 大海人皇子天武天皇と諡されました。天武天皇は兄天智天皇律令体制を継承し確立した天皇といっても良いでしょう。一方、壬申の乱で地方豪族の力に助けられたことから中央政界にこれら地方出身者が登用され始めます。奈良時代に吉備氏や毛野氏が高官として登場するのもこのためです。
 
 
 天武天皇の治世は、大和中心から全国規模の統治体制に発展した時代だったと言えるかもしれません。