

実際入鹿は、蘇我系の女性(入鹿の叔母)を母に持つ古人皇子の立太子を画策していました。異母兄古人が皇位を継げば自分の命が危ないという危機感は、蘇我氏勢力を滅ぼさない限り自分が滅ぼされると中大兄皇子の精神を圧迫しました。
そんな中大兄皇子に秘かに近づいた人物がいます。宮中の祭祀を司る中臣連鎌足(なかとみのむらじかまたり)でした。中臣氏はそれまで政治の中枢に関わる事もなくあまり目立たない存在です。鎌足自身は家の職である祭祀に飽き足らず学問を究め野心を持っていました。
鎌足は蘇我氏の世では自分の出世の芽が無いと考え、中大兄皇子に賭けたのです。鎌足は皇子に進言します。「蘇我氏は入鹿の専制体制で決して一枚岩ではありません。一族の中にも不満を持つ者がいます。それらと結ばれませ」と。
石川麻呂自身も、入鹿が一族を軽んじ自分たちを家来扱いする事に強い不満を持っていたのです。
当時入鹿は宮廷のあった板蓋宮(いたぶきのみや)を見降ろす甘橿岡(あまかしのおか)に豪壮な館を築いていました。ほとんど城塞ともいえる館に引きこもられては入鹿を倒すことはできません。
鎌足は策を練ります。ちゅうどそのころ百済・新羅・高句麗三国の使者が貢物を捧げに来朝していました。それを利用する事を考えたのです。天皇が三国の使者に謁見し儀式を行うということであれば大臣である入鹿は出席しないわけにはいきません。
使者が難波津に到着したという知らせは入鹿のもとにも届いていましたから、何の疑いもなく入鹿は板蓋宮に赴きました。しかしこれこそ鎌足の狡猾な策でした。使者が都に到着するより早く儀式の日時を決めていたのです。
645年6月12日、入鹿は宮殿の門をくぐりました。鎌足は宮中にいる使臣に命じてうまく入鹿の剣を取り上げます。
席に着く入鹿。刺客突入の合図は石川麻呂の上表文朗読でした。しかし緊張と不安で上表文を読み上げる石川麻呂は汗をかき文章を持つ手もがたがたと震えました。
不審に思った入鹿は、「何故そんなに震えているのか?」と石川麻呂に尋ねます。
石川麻呂は「天皇の御前だから震えているのです」と答えるのがやっとでした。
石川麻呂からの合図がなかなかないのに痺れを切らした中大兄皇子は自ら鉾を携え儀式の場に躍り出ます。皇子の突入で我に返った刺客団もこれに続きました。
「逆賊、覚えたか!」皇子が入鹿に鉾を突き出すと次々と刺客が斬りかかり頭と肩に傷を受けた入鹿は絶命します。独裁者の最期でした。
天皇は恐れ驚き「これは何事か?」と皇子を詰問しました。
「入鹿は皇統の皇子を滅ぼし、自らが皇位を狙っています。ゆえに誅しました」皇子は堂々と答えました。
法興寺は飛鳥川を隔てて蘇我氏の本拠甘橿岡と対していました。蘇我蝦夷のもとには漢直(あやのあたい)一族ら蘇我氏側の豪族が参集します。中大兄皇子は態度を決めかねている豪族たちに君臣の義を説き味方に引き入れました。
古代最大の豪族、蘇我氏は滅びました。
舒明天皇はすでになく、この時は皇后の寶女王が即位して皇極天皇となっていました。言うまでもなく中大兄皇子の実母です。642年即位ですから大化の改新の時の当事者は彼女だったのでしょう。自分の息子が朝廷第一の権臣を目の前で誅殺したのですからその衝撃は大きかったと思います。
それは白村江の戦いへと繋がります。次回は日本を揺るがした古代最大の戦いを描きます。