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奈良朝の風雲Ⅵ 藤原仲麻呂の台頭

 743年藤原仲麻呂従四位上参議に任命されます。橘諸兄政権ではすでに兄豊成が参議となっていたので藤原南家は二人の参議が誕生したことになります。仲麻呂は藤原家嫡流南家(父武智麻呂が初代)の次男でした。幼少期から俊才の評判高く叔母に当たる光明皇后は凡庸な兄豊成より仲麻呂に期待しました。皇后の引き立てもあり仲麻呂は744年には恭仁京の民政を担当する左京大夫も兼任します。

 右大臣橘諸兄はこの時従一位左大臣に昇進しました。参議から中納言には諸兄派の巨勢奈弖麻呂仲麻呂兄の藤原豊成が昇格します。橘諸兄の政治力は元正上皇の庇護あってのものでした。文武天皇が若くして崩御したので幼少の聖武天皇首皇子)の成長まで文武の母である元明天皇聖武天皇にとっては祖母)が即位したことは前に紹介しました。実は元明天皇の後もう一人の女性天皇が即位しています。それが文武天皇の姉に当たる元正天皇でした。

 聖武天皇は24歳の時、伯母にあたる元正天皇から皇位を譲られて即位したのです。ですから聖武天皇にとって元正上皇は頭の上がらぬ存在でした。証拠はないのですが元正上皇はどうも藤原氏が実権を握るのを良く思っていなかったのではないかと見ています。皇族出身の橘諸兄藤原氏以外の貴族を優遇し藤原氏の力を押さえつけようと考えたのでしょう。一方藤原不比等の娘光明皇后は再び藤原氏の力を取り戻すため一族の俊英仲麻呂に期待します。俗な言い方ですが嫁小姑戦争が巻き起こったようなものでした。

 聖武天皇光明皇后の間に生まれた唯一の男子基皇子が1歳にもならないうちに病死し、それを利用した藤原四兄弟によって長屋王が無実の罪を着せられ滅ぼされた事件がありました。聖武天皇には県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間にもう一人男子がおり安積皇子といいました。聖武天皇は生き残った唯一の男子である安積皇子を後継にしようと考えます。ところが744年16歳の若さで急死してしまいました。世間では光明皇后の意を受けた藤原仲麻呂が毒殺したのではないかと噂します。結局、皇太子には聖武天皇光明皇后の娘阿倍内親王が選ばれました。

 745年5月、五年の彷徨の末聖武天皇平城京に戻ります。同年9月知太政官事として太政官を総覧し最高の権威を誇っていた鈴鹿王が亡くなりました。鈴鹿王は武市皇子の子で長屋王の弟でした。鈴鹿王の死で微妙な均衡を保っていた藤原氏と反藤原氏の権力バランスが崩れ始めます。藤原仲麻呂は近江守を兼任するようになりました。近江国は父武智麻呂以来の南家の根拠地で勢力を扶植していたところです。以後失脚するまでの20年間、仲麻呂は近江守を手放しませんでした。

 ここに一人の人物が登場します。橘諸兄の息子奈良麻呂(721年~757年)です。奈良麻呂は藤原系の阿倍内親王立太子に不満でした。彼は秘かに長屋王の子黄文王を擁立すべく動き始めます。これに同調したのは多治比、小野、佐伯、大伴氏ら藤原氏に押さえつけられている不平貴族たちでした。その背後には元正上皇がいたと言われます。

 746年藤原仲麻呂は大納言になりました。橘奈良麻呂の暗躍を知ってか知らずか、橘諸兄系の官人たちを次々と地方へ左遷します。その一方、自派に属する巨勢堺麻呂、大伴犬養、石川年足らを抜擢するのも忘れませんでした。さらに仲麻呂東山道鎮撫使という諸国の国司の上位に当たりその地域の軍事警察権を一手に握る役職を設け自らが就任します。

 反藤原派の期待の星元正上皇は748年崩御しました。享年69歳。左大臣橘諸兄の政治力にも陰りが見え始めます。749年聖武天皇は娘阿倍内親王に譲位しました。すなわち孝謙天皇です。朝廷は新たに藤原南家の豊成が右大臣に就任しました。大納言には仲麻呂の他に巨勢奈弖麻呂が選ばれます。

 仲麻呂の長男真従(まより)は彼が最も期待した後継ぎでしたが若くして亡くなりました。そこで長女児従(こより)の婿に藤原北家房前の子御楯を迎えます。娘婿御楯は仲麻呂から期待され後継者と目されました。仲麻呂聖武上皇の大仏建立を助けますます信任が厚くなります。面白くないのは橘奈良麻呂です。755年、聖武上皇が病に倒れました。奈良麻呂は佐伯全成を呼び黄文王を擁立するクーデターへ参加するよう促します。すでに大伴氏の協力は得ておりあとはいつ実行するかにかかっていました。

 そんな中、奈良麻呂は秘かに右大臣藤原豊成を訪れます。奈良麻呂がクーデター計画を打ち明けた時、驚くべきことに豊成は賛成こそしなかったものの黙認する姿勢を示しました。実は豊成は弟仲麻呂を嫌っていました。叔母光明皇太后が自分より仲麻呂に期待する姿勢が露骨だったからです。豊成は機会あれば弟仲麻呂を失脚させようと思っていました。

 756年、病床に臥していた聖武上皇がついに崩御します。同年長らく朝廷を主導していた橘諸兄が老齢と病気を理由に左大臣を辞任し引退しました。聖武上皇孝謙天皇の皇太子に天武天皇の孫にあたる道祖(ふなど)王を立てるよう遺言します。道祖王の父新田部親王の母は藤原不比等の娘で藤原氏の血を引く数少ない王族です。ただこの人事は橘奈良麻呂にとっても藤原仲麻呂にとっても不満でした。そこで仲麻呂孝謙天皇を動かし道祖王に不行跡があるとして皇太子を剥奪、新たに天武天皇の孫大炊王を皇太子にします。大炊王は後の淳仁天皇です。

 756年6月、橘奈良麻呂は右大弁に任ぜられます。右大弁は従四位上相当の官職で後の官制では少納言より上位、参議になる一歩手前の高官でした。757年右大臣藤原豊成の黙認を得た奈良麻呂は、同志大伴古麻呂、小野東人らと共に密謀を重ねます。ところが長屋王の子でクーデター成功後は政府首班に加えられる予定だった山背王は、失敗したら死刑になると恐れをなし仲麻呂に「橘奈良麻呂らに陰謀がある」と訴え出たのです。

 仲麻呂側の行動は素早く、首謀者の一人小野東人を逮捕、拷問にかけます。東人は拷問に耐えかねすべてを白状しました。藤原仲麻呂を殺した後皇太子を廃し、駅鈴と御璽を奪い右大臣藤原豊成を通じて天下に号令し、孝謙天皇を退位させ塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から次の天皇を出すというものでした。

 小野東人の自白をもとに橘奈良麻呂道祖王黄文王大伴古麻呂、多治比犢養、佐伯全成らが一斉に逮捕されます。佐伯全成は拷問に耐えかね自害。孝謙天皇はさすがに死刑にするのをためらい流罪にするよう勧告したそうですが、仲麻呂は彼らを許すつもりは毛頭ありませんでした。全身を訊杖で何度も打つ拷問を受け次々と獄死します。黄文王ら皇族に対してすらこの仕打ちですから仲麻呂の冷酷さが表れています。

 仲麻呂は、兄豊成の関与も疑い何とか証拠を探したそうですが見つからず右大臣を罷免し大宰府員外帥に左遷しました。事実上の流罪です。これを見ると、仲麻呂は兄弟や一族からも嫌われていたことが分かります。いくら有能でも孤立したら末路は悲惨です。一連の事件は橘奈良麻呂の変と言われますが実態は未然に防がれ不発に終わったと言えます。

 政敵橘奈良麻呂の自滅という形で権力の絶頂期を迎えた藤原仲麻呂ですが、すでに孝謙天皇との関係は隙間風が吹き始めていました。次回藤原仲麻呂の失脚と敗死を語ることにしましょう。